2010年10月31日日曜日

神武記が再確認させた言語復原史学の真価

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:12頁

こうみてくると、

私たちの言語復原史学が、いかに史学の基盤にしっかり根をおろした、

正しく不動の史実復元システムだったかが、改めて強く再確認できる。

この神武記の例は地名が史実を写した記録だという主張だけだが、

その地名・国名を配列した天皇や豪族の「名乗り」は、

その史実を写した記録の複合物なのだから、

その「名乗り」中の地名や職名と、その増減や変化が、

そのまま歴史記録として読み取れるのである。

だからこそ地名が分布を広げ、それが大きさを変えていく過程が、

その勢力の消長を記録している。

それと『記・紀』その他の史料を比較対照して、分析し総合すれば、

その消長の原因結果がわかる。

それを『記・紀』ほかの文献が書く内容の信頼度を測定する物差しにし、

骨格として、前ページのような文献批判を繰り返しながら、

その原因を探ってその経過と答を知れば、

それらの名詞が体験した真実の歴史を、

高い精度で復元できるのである。

また様々な名詞は、言語としての国籍をもっている。

私たちは在来の

史学、

言語学、

民俗学、

民族学、

考古学、

神話学などの学者が、

日本語だと信じて疑わなかった名詞や言語が、

ギリシャ語、

パーリ語、

マレー語、

中国語、

アイヌ語などだったことも突き止めた。

だからそれが意味する内容はさらに史実を精密に復元して、

謎を知識に変えてくれるのである。

『参考』

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2010年10月30日土曜日

神武東征記事中にある「古代の言語復原史学」?!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:11頁

船が白肩の津に着いた時、楯をもって降りたのでそこを楯津という。

兄の五瀬の命が手に矢が刺さったので、

その血を洗ったから血沼(ちぬ)海という。

しかし命は亡くなった、

その時、命が男(お)たけびして死んだので、

そこを男(お)の水門(みなと)という。

敵が鳴り鏑(かぶら)で射返したので、

それが落ちた所を河夫羅前(かぶらぎき)という。

敵の死骸を斬り散らしたので宇陀の血原という。

といった調子で地名が、

そこで起こった事件の生きた証人だという立証法になっている。

この筆法は地名を歴史の復元に使うという点では、

私たちの言語復原史学の大先輩だといわねばならない。

しかし、そんな事件があったから、

こんな名が生まれたのだというが、

白肩は枚方以外には該当地がなく、

そこと盾津とは大き離れている。

チヌの海の名も倭王・珍と淡路島の津名のほうが

語源だと確認済みである。

河夫羅前(かぶらぎき)に至っては古来、該当する地名もない。

こうしたことは、地名の由来が史実に由来していると主張して、

だからこの記事は史実なんだと信じさせる目的で書かれたものだが、

昔の人なら知らず現在の私たちの知性をだますことはできない。

だがこれは、

千数百年前に遺跡や地名や伝承が

文化財として史実の立証に役立つということを知っていた

私たちの先祖の、

高い文化を記録していることを見逃してはいけない。

それが不純な目的のためにコジツケに終わるしかなかっただけなのである。

『参考』

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2010年10月29日金曜日

『記・紀』編纂の目的が凝集している神武天皇記

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:10頁

ところが『記・紀』はそれらを、

1度きりの神武東征だったとしている。

それは何故か?。

紀元前660年という太古に建国して以来一度も革命などなかった。

我が国は神仏に加護された東海の聖地。

万世一系をつらぬいてきた聖人君子国であると強調することで、

中国の征服欲をスポイルしようというのが、

天武天皇らの『記・紀』編纂の主目的だったからである。

彼らが正統の皇族であり、主権者だというのは国内向けの主張で、

これは弘文天皇(伊賀大友皇子)を倒して

政権を取った現実が周知のものである以上、

実力が決定することであり、

いくら血統を主張しても何にもならない。

だからこちらは副目的でしかなかったのだ。

そのために神武天皇の記事は、

いかに南九州から奈良まで、

一挙に大移動して首都を確保したかというスタイルに仕上げられた。

前段は東征コースの地名の羅列が芯になっている。

高千穂の宮。

豊国宇沙。

竺紫岡田の宮。

阿岐多祁理の宮。

吉備高島の宮。

速吸門。

浪速の渡。

白肩の津。

楯津。

日下。

血沼の海。

紀国男の水門。

熊野村。

葦原中国。

吉野河。

阿陀。

しかしそれだけでは史書の体裁をなさないので、

要所要所の地名に由来を書き加えてある。

それは今、

私たちが地名を「史実の証拠」として使うのと

同じ発想に基づいている。

ところがよく見ると、

神武天皇記の全文がそれだけで終わっているといっていい。

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2010年10月28日木曜日

鉏友の名が語る旧卑弥呼政権の東遷コース

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:9頁

だから、その鉏友の名乗り大倭日子(『古事記』)は、

『日本書紀』が書く「大日本彦」のほうが「オカモトヒコ」と読めて、

大日如来=ウカノミタマの化身・岡の大王を意味することがわかり、

岡山というのも、その中心=大本山を意味する地名だとわかる。

しかしこのことだけでも、

卑弥呼の男弟勢力=九州と朝鮮半島にまたがった倭国連邦の、

いわゆる卑弥呼政権が、

垂仁天皇・位宮と壹與の邪馬壹国新政権に倒されて追われたあと、

山陽経由で東遷したことが、

詳細に証明されている事実を、よく記憶する必要がある。

では残る名乗り「鉏友」とは何を意味するのか?.

鉏は古音「サカ」で佐賀と同じものだから伊都国付近を意味する。

またその「サカ」が、この人たちの集団の出発点を示すことは、

「サカ⇒サタ」について本講でも詳しくお話しした。

「友」は「トモ」という発音の地名だから、

広島県の東瑞・福山市の鞆(とも)の浦で、

その鞆は応神天皇の幼名「大鞆別」にも合うし、

すぐ目の前に皇后島という小島もあるから、

天皇の遺跡にふさわしく、

現実にその皇后とは神功皇后のことだ上いう伝承が、

そのあたりの瀬戸内一帯に分布している。

これで宇佐から四国⇒淡路島と進んだ倭の五王系と、

それ以前に山陽経由で東へ先行した卑弥呼系と、

それを追った邪馬壹国系の、

複合した東征の実情がご理解いただけたと思う。

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2010年10月27日水曜日

桃太郎。その吉備団子と「八戸伝承の謎」の答

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:8頁

この吉備攻略を立証している証拠には、

『桃太郎』伝承の「吉備団子」がある。

団の字を取れば吉備子(えびす)。

「腰につけた吉備団子」は、

高句麗王・位宮が桃太郎のモデルだから

「高志につけた吉備の国」で、字形からいって

「吉備国子」が吉備団子の原形で、

位宮派が取った吉備の国の一帯を

犬・猿・雉子に領地として与えて味方に加えた、

ということになる。

とすれば先に卑弥呼派の鉏友が領有していた吉備を、

位宮派の邪馬壹国王が奪い取って、家臣らに分け与えたのが、

この吉備団子が登場する形の桃太郎伝承の本体であって、

吉備津彦・鉏友の側が「倭人=オニ」と呼ばれたのも当然である。

そこで吉備津彦らは

倭国(オオクニ)主=大国主と吉備津(エビズ)彦=エビスとして

北の出雲に去った。

これが出雲に大国主らが祭られ、吉備に吉備津彦が祭られ、

瀬戸内一帯に桃太郎伝承が分布している理由なのである。

桃太郎伝承はもともと位宮の卑弥呼政権攻めを寓話化したものだった。

しかしそれは南九州での事件で、瀬戸内とは関わりはなかった。

それが瀬戸内だけでなく、私たちがよく知る構成のものは、

青森県の八戸で採集されたものである。

これは最終的には大化改新と呼ばれてきた

大阪大戦による倭国政変で、

東へ北へと大移動した旧倭国人たちが運んだもので、

それは新たな事件の度に新たな描写が付け加えられた複合記録なのである。

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2010年10月26日火曜日

神武東征に編入された吉備征服の真相

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:7頁

この御鉏友耳建日子は吉備の臣らの先祖だとあるから、

吉備子はエビス、国を譲った大国主の皇子を意味している。

卑弥呼の男弟・伊都王の

泄謨觚柄渠觚はシモクァピンチュウクァ、

後世、下吉備津彦と当て字された人物、

『日本書紀』では卑弥呼に当たる倭迹迹日百襲姫の弟・

彦五十狭芹彦(イッサンキン=戦さの君)、

別名・大吉備津彦がその人だ。

南九州人の東征と本州併合は、

『記・紀』の書く神武東征説話とは異なって、

移動の規模も大きく、また長期間を要したが、

吉備津彦神社を始めとする多くの遺跡・遺物から、

それが史実であったことは、

国名の移動拡大と分布の様相から、疑問の余地なく理解できる。

卑弥呼時代の首都だった巴利国(ハリマ)が、

移動して播磨(ハリマ)に発展した時、

それに隣りあう吉備の国を領したのは大吉備津彦の子孫たちで、

その領土は備前・備中・備後で、岡山県と広島県とを合わせた広大な地域だった。

これが真の「鉏友東征」の中身であり、

播磨と吉備の誕生が卑弥呼の死後であることは確実だから、

懿徳天皇は後世人だという「時代差」を明確に示している。

だがそれを神武東征として神武記中に編入したから、

本当の実体である鉏友も懿徳天皇として欠史系譜に名を連ねた。

神武天皇が

阿岐(安芸)の多祁理(タケリ)の宮と

吉備の高島の宮に合計15年もの長期間

滞在したというのは、この吉備平定の真相を伝えているのである。

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2010年10月25日月曜日

品陀・誉田は架空の幻影名にすぎなかったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:6頁

だとすると、品陀真若のマワカは「皮マ」が正しいから、

残る「トフ」が品陀になったことになるが、

それなら品陀も誉田もすべて架空の幻の名に過ぎなかったのだろうか?。

またこれまで到達した

「応神天皇の本名はポントスだ」という結論も間違っていたことになるが、

それもこれで消えてしまうのだろうか?。

一体どちらが正しいのだろう?。

これは、カワマトフ媛が、

応神天皇より前の皇后だった場合にだけ、語源なのであって、

同時か、以後の人物なら、当然、語源とはいえない。

なぜならポントスは古代ギリシャ以来の神名だから、

本都別誕生より以前からの実在は間違いないが、

懿徳天皇は、

いわゆる欠史天皇の一人で、

その皇妃たちも実在かどうかさえ疑わしいからである。

調べてみよう。

懿徳天皇の名乗りは大倭日子鉏(スキ)友(記)で、

その実体は、景行天皇の命令で倭建命と共に、

東方十二道を討ちに行った副将「御鉏友耳建日子」である。

御(オ)は大(ウ)・倭(オオ)で、

耳建日子は美称で、それも大半は後人がつけたものだから、

実名は「鉏友」だけだし、

またそれは世襲されていないから、

1人が2人に分裂してみえるものと見るしかない。

その反対に、倭建命は世襲されて幾人もの人が名乗っている。

その中で伊勢や焼津・筑波まで遠征したとすれば、

その人は景行時代どころか応神天皇よりも後の倭建命なのである。

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2010年10月24日日曜日

横書きと逆続みが実在した我が国の古代記録

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:5頁

シベリアのチクシ市、オビ河、バイカル湖などの地名は、

すべて日本語だとご存じである。

筑紫は九州の古名、

「皮革纏(かわまと)ふ人たち」チュクチ人は

間違いなく九州の先住民だった。 

懿徳天皇皇后の

『賦登麻和河比売・フトマワカ』も、

間違いなく「カワマトフ」と書いてあったものを、

逆に読んだから意味不明の「フトマワカ」になってしまったのだ。

これは縦書きなら、

どんなにしても間違って逆さに読むことはありえないから、

横書きの史料があったことと、その当て字から、

そうした逆読みが生まれたという証拠なのである。

また、その名に女性語尾の「ヒメ」がついていたのなら、

たとえ横書きでも、

その性語尾が目印になって前後がわかるから誰もこんな逆読みはしない。

なのに現実に逆読みしたものが複数、

『記・紀』に残っている事実は、比売や日子が、

古代に使われていた実在のものではなく、

『記・紀』編纂時代になって、

修飾のために追加された、後世の性語尾でしかない、

という私の発見の正しさを、さらに立証する証拠でもある。

一見名詞に見えた「マワカ」とは、

在来の学者は「単なる個人名」

と思い込んで一考だにしなかったが、

このように逆読みと、当て字の読み違いと、

誤解に基づく当て字の使用と、

修飾用の性語尾とが複合した偽記録の実在を、

併せて立証する重大な存在だったのである。

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2010年10月23日土曜日

応神妃の髪長媛たちは皮革衣料の持ち主

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:4頁

そのフトマワカを右から読むと「カワマトフ」になる。

またホムタマワカのカワマタムホは、

当て字の「陀」を本都別の「都」に換えると、

加和麻都品になるから、

品を草書で書いたものが「不」の字と紛らわしいから、

それに置き換えると「加和麻都不=カワマトフ」になる。

ところがこのカワマトフは無意味な名ではない。

『倭人章』のある『魏書東夷韓章』には

「州胡が馬韓の西海中の大島にいるが、その人々はやや短小、

みな頭をそり鮮卑のようで革を衣る。好く牛猪を養う」

と皮革を着ていたことを記録している。

ご存じの通り馬韓は朝鮮半島の南西部であり、

その西にある大島は済州島だが、

拡大して考えれば九州北西部の松浦も馬津国(マツラ)で、

やはり馬韓と同じ人種圏を意味し、

その東南の大島は五島列島で、

『肥前国風土記』には

値嘉(チカ)島=小値賀島=五島列島に牛馬を多数飼っている

言語風俗の異なった海人族がいたと書いてあるから、

「ゴトウ」とは「牛島」だとわかるし

馬韓が日本語圏だったことは

加治木義博著『卑弥呼を攻めた神武天皇』でも立証済みだ。

そして今主題の応神天皇の、

日向の髪長媛妃の一族は、

角のついた鹿皮の衣服を着ていたと

『日本書紀』にある。

「カワマトフ」とは

「皮を纏(まと)う=皮製の服を着た」人たちという意味で、

古代の我が国に、

皮革を衣服にしていた人たちがいたのは、疑いのない事実である。

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2010年10月22日金曜日

古代日本の人種・文化史を根底から改め正す手懸り

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:3頁

大学院講義録11:8頁で、

「真若」は、深追いすると脱線すると避けて残したのは、

加治木義博著『異説・日本古代国家』で、

『記・紀』のもとになった文献には横書きのものがあり、

それを逆読みしたものがあった実例を挙げてあるが、

その中にこの真若の語源と考えられるものがあり、

応神天皇の后妃にもその該当者があるので放置できないだけでなく、

それは古代日本の人種と文化観を根底から修正し、証明し確立する、

巨大な内容をもっているからであった。

『日本書紀』の系譜では誉田別尊の妃の一人は『弟媛』としか書いてないが、

『上宮記』の系譜では、

より詳しくて『弟比売麻和加』と「マワカ」が多くなっている。

この妃の父は『日本書紀』では『河派仲彦』、

『古事記』では『咋俣長日子』と当て字されて、

カワマタナカツヒコとクヒマタナガヒコと読まれてきた。

だが大学院講義録09の『古事記』応神系譜では、

弟姫らの父は品陀真若になっていた。

ホムタマワカを右から読むと「カワマタムホ」。

この河派仲彦と品陀真若の記録が語る証言は、

明かに「横書きの実在」と、

この左読みと右読みの「読み違いの実在」の2つを、

疑いなく雄弁に証明している。

そしてこれはさらに、

同じマワカの名乗りをもつ后妃に懿徳天皇皇后の

『賦登麻和河比売・フトマワカヒメ』があり、

この名がさらに、

その語源や古代日本の文化と人種構成まで立証するのである。

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2010年10月21日木曜日

この講座は輝かしい金字塔、最高の記念碑

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:32頁

だから、

まず文献に使われている文書の一字一句から

定義を確立して行かねばならない。

それにはその言葉が何語かと確実な答を積み重ねることから始めなければ、

どんなに苦労しても徒労に終る。

この点、私たちは

ギリシャ語、

マレー語、

パーリ語が

古代の日本で大量に使われていた事実を

確認しており、

中国語の影響も加算済みで、

大量の言語群の整理、分類も終っている。

今ではこの不動の基礎の上に立って、一つ一つ結論をみつけ、

それを正しい位置に配置して組み立て、

動かない立体像を再構築することができることを再立証した。

文献記録という面からも、

倭の五王には『宋書』という中国『正史』があり、

その登場者を同時に記録した『記・紀』と『三国史記』がある。

この複数記録のもつ相互補完牲を活用して、

どれだけ大量の真実の歴史が取り出せるかを、

実験してみたのである。

この強力な記録群の上に、

さらに五王がパーリ語使用者だったという確証が加わったので、

倭の五王は建国史中でも最高に恵まれた素材になったから、

これまで全く未開のままだった

『記・紀』解読と実態の解明を、

我が国建国史復元の最大の突破口として選んだ。

その結果はご覧の通り、

かつてみない満足なものになった。

日本史学最初の史実徹底復元が実現したという意味でも、

本号は輝かしい金字塔、最高の記念碑の一つになったと自負している。

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2010年10月20日水曜日

根本から異なる言語復原史学と在来史学との格差

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:31頁

この大学講座は、

もともと、会員が論文をお書きになる際、

どう表現するのがいいかという講座である。

文体や配列などについては、

もう一通りご覧いただいた。

しかし論文そのものの本質は書体や言い回しとは無関係で、

その実質が充実していなければ何にもならない。

では実質とはどんなものか?、

私たちの言語復原史学の実質とは、

動かぬ証拠群によって史実が何処まで復元できるかということである。

今回はそれを、

これまで見てきた倭の五王を主題に、

さらにあらゆる角度からみた証拠群で補強するという形で、

すこしくどいが過去の知識にさらに新しいものを加えて、

実例を挙げ、実地に追及してご覧に入れた。

在来の、我が国の史学界で取られてきた明治以前からの手法。

他の学者の論説を紹介してそれを取捨選択して

「私は、これが正しいと思う」

という個人的主観を並ペるという手法は、

他の学者から

「それは貴方だけの独断だ。私はこちらが正しいと思う」

という反論が幾らでも出てきて混乱を生むだけだった。

それは古文献の文言が、

例えば非常に破究が進んでいると思われている

『万葉集』でさえ、

これが絶対だといえる読み方はまだ確定していないからであり、

もっと身近な実例は、

研究が最も進んでいるはずの、

卑弥呼が治めた国名でさえ、

今頃まだヤマタイコクなどと呼んで平気でいる

大家?がいるという惨状を呈している。

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2010年10月19日火曜日

言語復原史学は何を成し遂げたのか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:30頁

鹿児島県には、このほかに、風の方位としてのイセと、

それをまともに受ける地形の名のイセがあるが、

これは歴史が先にあって、

それから後世に派生した名称で、

与那国人の移動とは無関係なのに、

まぎらわしくて、

間違った答がでる可能性があるので省略した。

同様の問題は常に多数出現するので、

言語復原史学では、必ず峻別することを怠ってはならない。

言語には似たものが多いから、

功を焦った粗雑な引用は、

他の折角の業績まで無にする。

これで、

イザナキ=履中天量らが、

立神岩のある与那国島=イオニア出自だったことが、

疑いを残さずご確信いただけたと思う。

それは倭の五王と呼ばれてきた仁徳天皇一族の真実の出自を立証し、

その消長と政権交替を、

活きた歴史として復元して見せてくれた。

そしてさらに、

彼らが伊勢に祭られている天照大神の一族だったことも立証し、

その一族がどんなコースをとって淡路島に至り、

大和朝廷にまで発展したか、

またそれと争って政権を奪いあった勢力も、

どんな人々であり、

どんなコースを進んできて遭遇し、戦ったのか、

またこれまで空想で固められていた

『魏書倭人章』論説も、全てのベールが剥ぎ取られて、

『記・紀』、『三国史記』と結合して、

『魏書倭人章』には書かれていない真相までもが、

徹底的に白日のもとに姿を現わし、

展示品を見るように明確に直視できるようになった。

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2010年10月18日月曜日

伊勢の王イサナキの領地名の移動発展コース

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:29頁

だからこの伊勢の大神のイセも、

与那国人たちが運んできた名詞で、

それがイザナキの命の語源であることも、

よくおわかりであるから、

次はそれがどんなふうに移動拡大してきたのか

確認しておくことが必要である。

沖縄県には次の4つがある。

石垣島    石川   伊差川     伊是名島

イシガキ   イシガ  イサガ     イゼナ・イジナ

伊勢の王   伊勢の  伊勢の     伊勢の

イサナキ   イサナ  イサナ     イサナ

与那国島の東 沖縄本島 沖縄本島名護市 沖縄本島の北

鹿児島県にも次の4つがある。

伊仙     入佐   伊敷      伊佐郡

イセン    イーサ  イシキ     イサグィ

伊勢の    伊勢   伊勢王     伊勢王

イサナ    イサ   イサナキ    イサナギ

大島郡    松元町  鹿児島市    伊佐郡

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2010年10月17日日曜日

応神以前の為政者も神話でなく史実の人たち

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:28頁

位宮の名は、

ヨーナの原音・イオニアのイオンの意味である

「行く」に対する当て字の、

位宮(イク)だと前にお話しした通り、

それも個人名ではなくイオニア王を意味する名乗りだった。

その伴侶であった壹與は、

『三国史記』では、

新羅始祖王・赫居世居西干と記録してある。

この「居西千」はイセカンだから

「伊イ 勢セ 神カン」である。

これは卑弥呼と壹與が、

天照大神と豊受大神だという仮説の正しさを証明している。

この2大女神はいうまでもなく

三重県の宇治山田市にある伊勢皇太神宮の主神である。

しかしなぜ天照大神というのか?。

『三国史記』では、

新羅の王称を尼師今(ニシキン)とも書く。

これは日本語である

「尼の師の君(きん)」への当て字だから

尼 寺師 倭 女君

天 照す 大 御神 なのである。

続く新羅王は南海次次雄だ。

この次次雄は朝鮮語発音では

「ススウ」で、

これに助詞のヌを入れると「ススヌウ」。

これはスサノオの沖縄発音

「ススヌウ」とぴったり一致する。

本号で先にお話しした

『後漢書』の倭王「帥升」はスィサヌウで、

スサノオへの当て字以外には考えられない。

応神天皇以前の天照大神や垂仁天皇=位宮が実在者であったことは、

このように『記・紀』以外の

『三国史記』や『後漢書』にも明記されていて疑問などない。

『参考』

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2010年10月16日土曜日

危険と汚辱に満ちた、建国史なき日本の現状

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:27頁

しかし、国家主義者に誤った弾圧を受けたからといって、

津田左右吉氏らが正しい史実を知っていたということではない。

それなのに全世界を相手に戦って当然の敗戦に終わって、

亡国犯・国家主義者どもが抹殺されると、

今度は唯物史観こそ絶対のものだと称して、

検証が粗雑で勝手な私見に満ちた津田説などをまるで『聖書』扱いし、

私たちが史実だと判定している部分を含む『記・紀』の記事の中の、

仮定にすぎない『神話』という分類を、

まるで定説のように錯覚して、

「応神以前は神話だ」と、

まるで汚物のように排斥して義務教育から切り捨ててしまった。

これもまた無智無脳というはかない極端な行為である。

そのため今では日本人の大半が、

祖国はどんなふうに生まれたのか、

先祖がどんな人たちだったのか、

まるで知らないし興味さえない。

建国史に至っては、

戦前の極端な盲信のまま危険思想が生き残っていて、

スキさえあればもう一度、

超国家主義を復活させようと、

虎視眈々と狙っている政治屋が大きな顔をしている。

彼らはそれが東条やヒトラーやサダムや金某と全く同じ愚行であることに、

まるで気付かぬ愚かさである。

そのため私たちがこれまで発見し確認した貴重な史実を、

まだ知らない世界の人たちからは、

日本人は建国史も祖先のルーツも知らない、

危険な超国家主義の文化後進国民だと嫌われ続けてているのである。

『参考』

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2010年10月15日金曜日

孤立・戦争・亡国を生む『記・紀』編纂のツケ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:26頁

淡海の三船は

それにさらに允恭(いんぎょう)と漢風諡号(おくりな)した。

「イン=居ん」であり、「インギョウ=隠形」である。

これで彼もまた、

この時の政権交替の実情をよく知っていたことがわかる。

この例だけでも充分みえるように、

『記・紀』は、

たいへんな敵味方を親子だとして平気でいる『正史』なのである。

繰り返すが、

それはあくまで対中国向け宣伝文書だったから、修飾だらけである。

その最大の強調点は天皇家政権の歴史の長久を相手に印象づけることで、

それは必然的に建国を古く見せようと

神武天皇即位を紀元前660年にし、

それ以後、政変は皆無の「万世一系」だとした。

そのため敵であった卑弥呼と崇神天皇もその中に組み込み、

内戦に明け暮れた

景行天皇も

仁徳天皇も

欽明・敏達天皇も、

天智・天武天皇も、

みんな引っくるめて万世一系にしてしまった。

それは確かに国策上は重要なことで、

責めることはできないが、

それが正確な歴史でなく、

いかがわしい作り物だというボロが至る所で出ている。

そんなものを明治以降の国家主義者らが悪用して、

国策だと津田左右吉氏らの『記・紀』批判者を弾圧したが、

極端な天皇制ナショナリズムが全人類に爪弾きされるのは当然だから、

大日本帝国は必然的に孤立無援に陥いり、必然的に崩壊してしまった。

天武天皇らの小細工が、早かれ遅かれ天皇家政権を潰す宿命を、

重くみじめに背負わせていたのである。

『参考』

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2010年10月14日木曜日

名乗りが物語る詳細な勝敗と政変

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:25頁

淡路島のほうはすでに実体が明らかな仁徳天皇系・倭の五王政権だった。

山陰経由の方もすでに明確になっている欽明天皇の高句麗系政権だった。

それは用明天皇の名乗りが

橘豊日で「但馬国の豊日(フジ)」を意味し、

その後、

長柄豊崎の宮に君臨した

天萬量日=天満の豊日(フジ)こと孝徳天皇につながる

名乗りになっていることも、また検討ずみである。

この豊日(フジ)が百済のフジで、

大阪府豊島(フジマ=フジ国=百済国(フジマ))郡に

その地名を残したこともまた、

よくご存じのことである。

これがあるから倭王・興は百済・蓋盧王の方が有名になったが、

彼が国を失った原因の巨大古墳群は、

朝鮮半島にはなくて大阪府にあるという厳然たる証拠の前に、

今では誰もこの解明史実に反対できなくなったのである。

だから山陰経由の高句麗系勢力に

大阪政権を奪われた倭王・武は、宋の皇帝に上表して、

援助を乞うハメに陥ったのである。

『記・紀』はその時、政権を握った高句麗系天皇を、

興=安康天皇の前に挿入して允恭天皇とし、

その名乗りを

雄浅津間稚子宿祢(紀)、

男浅津間若子宿祢(記)と書いているが、

それは大雀、伊邪木和気、水歯別、穴穂といった

名乗りと明かに異なっているし、

その訓(よ)みも「おわさず=居ない」

という皮肉なものに変えられている。

これに合う地名はないから、

これは明らかに本来の名乗りではないのである。

『参考』

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2010年10月13日水曜日

[立神岩]の分布は何を復元するか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:24頁

こう見てくると、

与那国から出発したギリシャ人勢力が、

イナと方言化して呼ばれながらも、

山陰から岐阜県にまで達していたことが跡付けられた。

しかしそのコースは四国~淡路島経由ではない。

明らかに山陰経由である。

これはギリシャ人の東遷といっても、それは単純ではなく、

複数のグループがあったという証拠である。

山陰経由のものは浦島伝承をもっているから

明らかに位宮・垂仁系だが、

淡路島の倭の五王系はそれを持たないグループだ。

こちらは本当に与那国系なんだろうか?…。

それに明確に答えるのが、右の写真である。

これは沖縄の石垣市が作った

『八重山の旅』という観光案内書に掲載された与那国島の

「立神岩」の写真である。

これは確かに九州を経て淡路島まで達している。

「写真」

与那国島の[立神岩]:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E9%82%A3%E5%9B%BD%E5%B3%B6

上立神岩 沼島:http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kamitategamiiwa.html

『参考』

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2010年10月12日火曜日

位宮系を立証した山陰経由のギリシャ勢力

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:23頁

しかし、浦島神社まで建てて祭るというのは、

血縁関係があるからである。

またこの蓬莱の語源がギリシャ神話のホーライであり、

台湾が今もホーライと呼ばれていることも、

よくご存じの通りでその血縁は他の地名にも及んでいるはずである。

そこで宮津市の地名を見て見ると、

まずこの「日置」が鹿児島県では、

郡になっている建国史上重要な地名である。

また丹後という国名そのものが、

タニ=種、ゴ=子で種子島からの移住を

記録していることもすでに検討ずみであるから、

種子島の海人王・ビチヌウシン(亀)の娘を

亀比売と呼ぶことも決しておかしくない。

むしろ、非常に詳しい知識をもっているというべきだ。

こうみてくると、

与那国人は浦島伝説とペアになることで分布先を明示している。

だからそれらの地名は、単に発音が共通しているというだけでなく、

それが地域による発音変化で、

その移住・拡大は、疑う余地がないと、

はっきり証明していると断言できるのである。

また丹後から真南に南下したコースには、

兵庫県最東部の猪名川と、

大坂府北部の箕面市から兵庫県宝塚市にまたがる

稲(いな)地方がある。

その宝塚市には蓬莱峡と呼ばれる名勝があるが、

浦島伝説は今では忘れられて僅かに地名だけが残っている。

この稲が、

百人一首の「イナの笹原、小夜更けて」のイナであり、

孝徳天皇朝の豊日の国の母体になった地域なのである。

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2010年10月11日月曜日

丹後の浦島太郎伝説『「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)』

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:22頁

<稲>は<イネ>・<イナ>の発音があるから、

九州北部には後漢の皇帝に金印をもらった<委奴国>があったし、

その北東に島根と鳥取両県にまたがる米子の大平野がある。

また丹後からの北陸道と京都からの東海道が出会う

琵琶湖東岸の分岐点は米原で、

今はマイバラと発音しているが、

与那原と同じ発音でも読めるから与那国人の遺跡とみると、

その東に木曽の伊那盆地があり、

木曾川に浦島伝説で名高い「寝覚の床(ねざめのとこ)」があり、

下流の恵那(えな)峡も<イナ>⇒<エナ>で発音変化だ。

丹後の伊根町は、天の橋立(あまのはしだて)で有名な宮津市に隣接している。

その天の橋立(あまのはしだて)を北へ渡るとすぐ

難波野で、そこに竜神社がある。

また少し行くと日置(へき)にでる、

ここが『丹後国風土記』で有名な

「水江(みずのえ)浦嶼子(しまこ)」の居た日置の里で、

ここにあった筒川村に筒川の嶼子という男がいて、

海で五色の亀を釣ったところが、

それが美女・亀比売になって海中にある

蓬山(ほうざん)(蓬莱山(ホーライさん)=冥界)へ連れて行く、

そこには眼も輝く御殿があり、

そこで亀比売と楽しい3年を過ごした後、

父母が懐かしくなり筒川へ帰ってみると、

実は300年後で、知っている者は一人もいない。

そこで土産の玉厘(くしげ)を開けると、

蘭のようなものが空へ閃きながら飛んでいってしまった。

という話である。

ご覧の通り、一般に知られている浦島太郎の話とは非常な違いが眼につく。

これは、

本来の垂仁天皇の歴史が忘れられた後に、

再構成されたものだと証言している。

『参考』

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2010年10月10日日曜日

方言化した地名・国名の歴史を確認し確定させる伝承

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:21頁

また<壹與>は<赫夜姫>でもある、

姫がなぜ「月の世界」へ行ったのかも、

史実が複合して説明している。

連れて行かれたのは「夜国(ヨナ)」で、

月読国で、冥界=(死者=鬼=鬼道)=仏教国でもある。

そして「ヨナ原=夜国の首都(ハラ)」で即位した。

『記・紀』と『三国史記』と『説話』の既得知識を総合することで、

ここまで詳細に史実を復元できるのである。

これまでは「ヘンな名の島」程度にしか見られていなかった

与那国島1島だけでも、

建国当時の謎がこんなに解ける事実を、

一人でも多くの方に、

少しでも早く知っていただきたいと思うのは私だけであろうか。

次は17頁の与那国勢力の拡大状況を、探って辿ってみよう。

与那のつく地名は沖縄本島までくると大型化したが、

南から北上したものの、

本島の3分の1あたりで止まってしまっている。

しかし、そこから出た位宮や壹與は全九州で活躍している。

それなのに与那のつく地名は見当たらない。

一体?どうなっているのだろう。

この答は本州で見つかる。

京都府の宮津市に隣接する

与謝郡伊根町は浦島伝説で町おこしを計っている漁村で、

宇良(うら)神社と浦島神社がある。

その位置は丹後半島の東北部分で、

沖縄本島の与那城村の在り方に似ているが、

それより伊根・イネという地名がヨナと無関係ではない。

これは「米(よな)と稲」の関係にあるとみれば、

徹底した検討が必要になってくる。

『参考』

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2010年10月9日土曜日

既得知能の総合で、詳細に復元できる史実

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:20頁

それは<壹與>がなぜ.?

新羅始祖王とされたかも教えてくれる。

彼女は『魏書倭人章』にはっきり

「卑弥呼の宗女」と明記されている。

宗女とは宗教上の後継者という意味であることは疑問の余地がない。

その<卑弥呼の宗教>・<鬼道>は、

すでに完全に解明ずみで細部までわかっている。

それは仏教であり、

<卑弥呼>とその後継者の<壹與>を観世音菩薩としたことまで、

決定的に結論が出ている。

それも単に文献の解読からだけでなく、

東アジア各地の言語や、地名や、伝承や、遺物、遺跡に至るまで、

徹底的に証拠が満ちみちている。

まず観世音(カンシーイン)の名そのものが

マレー語の愛・カシーへの当て字であり、

卑弥呼のパーリ語名ぺマカ=愛の訳音であり、

神功皇后廟の名・香椎だった。

その観世音信仰の分布と拡大の跡を辿っても、

それは中国で南海古仏と呼ばれて、

発生地を琉球列島とし、発生時期も卑弥呼当時にあてている。

そして『三国遺事』が

高麗外交官の中国での見聞として、

娘々(ニヤンニヤン)廟=観音廟を

我が国の信仰だと教えられたと記録している。

もちろん信仰の祖型はインドにあるが、

関連地名や、

そこにある観音信仰の本山は、

時代が全て卑弥呼以後のものである。

インドとの交通は決して西から東への一方通行ではなく、

従来の予測をはるかに超えた往来があったことも、

またこれでよくわかるのである。

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2010年10月8日金曜日

建国時代の天皇家とその政権の信仰は仏教

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:19頁

こうして<ヨナ>という日本語の起源がわかり、

夜食国が単なる神話やおとぎ話だけの架空の国ではなく、

今も実在する島のことであり、

それらはギリシャ語と、パーリ語と、マレー語の実在と、

それらの言葉を話す人々の居住と文化の伝播を、

証言していることがわかったが、

そればかりではない、そこを冥界とする思想が、

当時の日本に仏教が実在したことと、

その説話をもつ人々、

すなわち『記・紀』を

自らの歴史として公表した天皇家とその政権の信仰が、

その仏教だったことを、幾重にも重複して明確に立証しているのである。

このことは、さらに重要な証言になっている。

それはそれは明かに仏教徒の支配権を握るためが

その冥界の支配者になりたいと強要した事実を

記録しているが、

この<スサノオ>は山上王位宮・垂仁天皇と<本牟智和気>である。

彼らは何のために

<卑弥呼政権>と戦い、<邪馬壹国政権>を樹立したか?。

それは明かに仏教徒の支配権を握るためで、

それがこれで明確にわかると同時に、

彼の宗教が仏教だったことが、より明確に証明された。

このことはその跡を継いだ応神天皇が、

八幡大菩薩という仏教名や古

墳に建てた九輪塔などで証明されてはいたが、

ここでさらに動かない証言の数々を加えたからである。

だから<壹與>を始祖とする新羅の語源は、

卑弥呼の仏教に比べて、

より戒律(シーラ)の厳しい<シーラバッガ仏教>だったことが、

決定的に確認できる。

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2010年10月7日木曜日

実在している「夜食国」それは仏教思想の産物

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:18頁

この<ヨナ>という発音はさらに別の問題にも、

正確な答を与えてくれる。

「夜々」と書いて「ヨナヨナ」と読み、

夜の仕事を「ヨナベ」という。

この「夜=ヨナ」の発音を意識すると、

これまで「夜の食(お)す国」などと読むのだと教えられてきたものの、

なんのことだか分らない3貴子分治に出てくる

「夜食国」の意味が正しく解ける。

南九州では夕飯の後で夜なべ仕事などをして、

もう一度食べる夜食を「ヨナグイ」という。

そして、その南九州語では与那国も「ヨナグイ」と発音する。

夜食国は南九州人が記録した与那国を指す、

実に適切な当て字だったのである。

沖縄語は<東>を<アガリ>、

<西>を<イリ>という。

明らかに太陽が上がる方向が東、入る方向が西と、

太陽を基準にした言葉である。

最も西の大島(だいとう)を西表島(イリオモテ)と呼び、

その西に最西端の与那国島がある。

これは確かに太陽が沈んだ後の「夜の国」だから「夜ナ国」でもある。

<ヨナヨナ>、<ヨナベ>、<ヨナグイ>の

「夜=ヨナ」という日本語は間違いなくここで生まれている。

3貴子の話では夜食国は月読の命が治める冥界である。

亡き母・伊耶那美は冥界に居るから、

スサノオは母とともに居たいと、

不満で泣きわめいて割り当てられた海洋を治めない。

西に冥界があるというのは仏教だけの思想である。

「西方浄土」という熟語がそれを証明している。

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2010年10月6日水曜日

沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:17頁

だからそれは日本列島における

ギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、

そこを出発点として、

日本列島の中に残っている

そのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、

フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に

2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが

4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。

5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、

すでによくご存じである。

それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、

彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、

これは<ヨナバル>という発音で、

<与那原>を北九州語で発音したものに

朝鮮語で当て字したものだからである。

このことは他にも多くの証拠を残している。

壹與が新羅の初代女王だということは

神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、

彼女らがパーリ語を話したこと。

赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。

などなど……。

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2010年10月5日火曜日

パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:16頁

それは西方の大文明が大量に入っていた事実など、

想像する能力さえない証拠なのである。

世人に一流の知性人と尊敬されている

「大学教授」の肩書きをもつ人々でさえ、

そんな有様では、一般の国民はなおのこと、

古代日本にギリシャ人やパーリ語を話す人々が

来ていたと信じられなくても当然としか言いようがないが、

それらの人々にも納得のいくように、

まず日本列島の中に、はっきり残っている、

ギリシャ語圏の移動拡大から跡づけてみよう。

パーリ語で「ヨーナ」はギリシャ人のこと。

その本当の意味はイオニヤというギリシャ語が

「イオン=行く・移る・拓(ひら)く。イァ・ヤ=国・土地」で、

「開拓者の国=移住者の国」を意味することからイオニヤンと

自称していたギリシャから来た人々を、

インドのシヤカ人やマガダ国人などパーリ語系の言葉を話す人々は、

『ヨーナ人・ヨーニヤン』と呼んでいた。

この名詞語尾のヤンは静岡県以西で

「○○君」を「○○やん」というのと同形で、

パーリ語が我が国に入ってきて、

使用されていたことを立証している貴重な遺物なのである。

今なら、こんなふうに細かく意味を考えて名詞化するのだが、

当時はそれがギリシャ人を指す唯一の代名詞だったから、

パーリ人たちはヨーナを人種名として使っていたのである。

それが台湾経由で日本列島への取っ掛かりの島に、

今も与那国島として残っているのだ。

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2010年10月4日月曜日

奈良に竜宮があり海洋王がいたとする恥辱的史学

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:15頁

また、

スサノオは海の支配者で、

ポントスも海の支配者である。

それも瀬戸内海のような小さな海ではない。

広大な「海洋」の支配者なのである。

この事実はうっかり見逃すことはできない。

なぜか?。

過去の日本史家は、

こうした事実に全然無知だったから

垂仁天皇親子を全く海のない奈良県の住民にして平気でいた。

そして竜宮城でもある狭穂を奈良市にある佐保だと主張して、

その無知を恥かしいとも思わなかった。

これでは、

オオヒルメである壹與は船にも乗れず、

幼い八幡を背中に負い、

山道を歩いて来るしか方法がないから

『大隅正八幡縁起』はニセ物だということになる。

しかしそれでは「狭い」を

アイヌ語で「タンネ」と表現したことが

島名の語源である「種子島」も、

ポセイドンから始まった海洋国を意味する

「百・日・穂」などのホの国も、

みな、奈良市の佐保にあったことになって、

とても日本の古代史の解明など、出来そうもなくなる。

また考古学者らも、

その佐保付近に垂仁天皇=位宮陵や、神功皇后=壹與陵があるからと、

大和朝廷は紀元前後に奈良に誕生したと教えているが、

彼らの頭には南九州の田舎者・神武天皇が奈良へ侵入して、

土民の村長らを倒して侵略したのだ、という建国史観だけしかなく、

天皇家とはその田舎のオッサンの子孫だと、

今も国民を教育し続けている惨状なのだ。

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2010年10月3日日曜日

八俣大蛇はアポロンの大蛇退治から生まれた

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:14頁

この大蛇退治もギリシャ神話の重要なモチーフである。

北方からギリシャにやってきた、

太陽神・アポロンは、

今アポロン神殿跡が残るデルポイに行き、

テミスの神殿を守っていた

大蛇・ピュートンを退治てそこに君臨し、人々に神託を授けた。

このピュートンは、神託の巫女・ピューティアたちの怪物化で、

同じくもとはゼウスのビューティアだった卑弥呼を、

怪物・八俣の大蛇に変えたのは、

このアポロンの大蛇退治物語が大きく影響している。

それはスサノオが北方の朝鮮半島からやってきた状況から真似ている。

位宮は確かに高句麗からやってきた。

そして神託の女王であった卑弥呼を退治て君臨した。

そうした類似点がアポロンの大蛇退治を連想させて、

八俣大蛇物語を作り出したのである。

またスサノオの名乗りを見て見よう。

それは『後漢書・東夷・倭章』にある

「帥升」が、

カールグレンの上古音発音でスサヌウになり、

スサノオを沖縄語~大隅語発音にしたものに一致するから、

これが初期のスサノオの名乗りであることは、どこからみても疑いない。

その帥升は後漢安帝の永初元年=107年に

訪漢して安帝に会見を求めているから、

卑弥呼が死んだ247年の140年前である。

この間、何名のスサノオがいたか不明だが、

世襲された複数のスサノオが実在したことは疑いの余地がない。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年10月2日土曜日

本牟智和気もスサノオのモデル

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:13頁

これと同様に、

スサノオの命の実体も、

このギリシャ神話との関連確認が済めばわかる。

それは垂仁天皇皇子の本牟智和気が、

スサノオと全く同じ伝承で語られているからである。

スサノオは割り当てられた海原を治めないで、

母のいる根の堅州国に行きたいといって、

「八拳須(やつかひげ)(八握りもある長く伸びた顎鬚(あごひげ))が

心前(胸の前)に垂れるようになっても」

山の草木が枯れ、海も河も干上がるはどに、

泣きわめくばかりだった。

本牟智和気王も

「八拳鬚(ひげ)が心前に至るまで真事(まこと)とわず(話さなかった)」、

父の垂仁天皇(位宮)が心を砕いて、あやしたり遊楽に連れ出しても、

少しも喜ばず口をきかなかった。

スサノオは八俣大蛇を退治たので有名だが、

本牟智和気もまた檳榔の長穂の宮に移った後、

肥長比売と結婚したが、

戸の隙間から姫を覗き見すると何んと正体は蛇だった。

驚いて逃げ出したが、蛇は怒って追って来た。

そこで船で海へ逃げたが、

大海原を照らして輝きながら追ってくるので、

とうとう船を担がせて山を越えて逃げて、

やっと捕まらずにすむ。

スサノオの勇ましさとは正反対の話になっているが、

蛇と争ったという、そのモチーフはちゃんと揃っている。

これを史実に照らしてみると、位宮は卑弥呼と戦った。

八俣大蛇は卑弥呼と仏教を象徴しているから、

この部分のモデルは位宮で、父子で世襲したことがわかる。

『参考』

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2010年10月1日金曜日

神話や説話は史実の優れた表現法だった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:12頁

だが、これまで『神話』と単純に分類していた学問が、

いかに不完全なものだったかも、すでにおわかりになっている。

それは神話と呼ばれたそのものが、史実を表現するための、

当時としては当然の「表現法」であり、

聴く者に理解しやすく、記憶しやすくする、

優れた教育法でもあったからである。

だから、それは単なる海外知識の受け売りではなく、

現実に起こった事件の記録法だったのである。

それは山上王位宮が魏軍との戦いに敗れて高句麗を脱出したとき、

鴨緑江海軍を率いていた

海人族の王・旦波の比古多多須美智能宇斯(ビチヌウシ)王の船で

琉球へ逃れたが、

それは位宮がビチヌウシに恩恵を施していた

報恩の行為だったことが琉球を竜宮に、

位宮を浦島太郎に、

ビチヌウシを亀に置き替えると鮮明に見えてくる。

高句麗はタカグニだから太カ国、その王だから太郎。

大国は沖縄~大隅語で

大=ウ、国=ラで「ウラ=浦」、「之国はシマで島」、

ビチヌウシはインドの最高神ビシュヌウのことで、

昆紐縫神(ビチュヌウシン)などの当て字があるから、

シをチと発音する沖縄語の影響で

美智能宇斯(ビチヌウシ)と書かれていることが分る。

このビシュヌウは

インドの創世記『乳海攪拌』では、

巨大な亀に変身して乳海の底に沈み、

巨大な回転軸マンダラ山を受ける軸受けになって、

不死の甘蕗をつくる。

だから美智能宇斯は亀なのだ。

これで神話や説話は史実の表現だと確信できるのである。

『参考』

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