2011年1月31日月曜日

重要な、皇居名と所在地名の比較確認

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:22頁

雄略天皇は、

御所(ごせ)市の葛城山で、

天皇のような供揃えの神に会う。

一言主の大神だという説明になっているが、

現実問題として考えれば、

5世紀に神が姿を現わすはずがない。

これは前政権時代の有力者との遭遇が描かれているとみていい。

『記』は長谷朝倉宮で天下を治むと書き、

『紀』は泊瀬朝倉壇で即位したと書いてある。

ところが『古事記』は幾つもの歌謡を挙げているが、

その中の三重の采女(うねめ)の奉った歌には、

纏向(まきむく)日代宮とある。

皇居を移したのであれば、

そのことが書いてあるはずなのにそれがない。

この答は意外なところにある。

それはこの纏向日代宮は

景行天皇の皇居の名であり、

垂仁天皇が、

あの狭穂姫と暮らした宮も、

同じ纏向の珠城宮だったことがヒントになる。

私たちは垂仁天皇=位宮が

狭穂姫と共にいたのは、

種子島だったことをよく知っている。

それは山幸が海を渡って行った島で

豊玉姫の島、

浦島太郎の竜宮で、

オオヒルメが八幡を連れて隼人町まで、

海を渡ってきた出発点の島でもある。

景行天皇も卑弥呼政権の崩壊後、

大移動でカラになったそこへ移ったから同じ地名なのだ。

この纏向がもとは種子島だったことは動かない。

これも香椎が奈良県に移って橿原になったように、

地名の移住があった証拠である。

だから「纏」はテン⇒チヌで、

向は日向のガ、

チヌガ=角我=ポントスの都だ。

『参考』

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2011年1月30日日曜日

「愛」の系譜

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:21頁

アガフイ  ギリシャ語発音             沖縄語 アガフイミグァ=吾が日女子

アモーレ   ラテン語発音               アミーゴ 愛人

アミ       ラテン語発音の系列?       台湾のアミ族

アマ       ラテン語発音の系列?       天・海女・尼・海人・海部・甘

ペマカ     バーリ語                   5000語以上が日本語化している

フイミグァ その沖縄訛り              「卑弥呼」の漢魏音に最も近い

ヒメコ     その南九州語訛り            姫木は古音「ヒメコ」

カシー     マレー語                    3000語以上が日本語化している

カシハラ   マレー語+原(首都)        橿原・柏原・樫原

アイ       中国語発音                  卑弥呼は呉からきたギリシャ系

アイラ   愛国 姶良は当て字          国をラというのは薩摩語

ハイヌ   中国語訛り 羽犬塚は当て字  頭音をH化する

アイノ   愛 + 助詞の「ノ」        藍野陵=継体天皇陵=大阪府茨木市

アイヌ   アイヌ族 倭国東遷の究極の人たち。言語は原住民語化している。

『参考』

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2011年1月29日土曜日

姶良(アイラ)は「愛=ぺマカ=卑弥呼」の愛国(アイラ)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:20頁

反正、雄略両帝の皇后妃皇子女。

橘姫皇女、

都怒郎女皇后、

都火良郎女、

財郎女、

韓姫が示している名乗りの地域は

南九州の種子島から姐奴国であり、

吐葛嗽列島と宝島で、

姶良郡までの九州最南端部の地名で

占められていることは、

もう熟知して頂いていることである。

そのうちでも最後の「韓=姶良」は、

特に大きな問題を一度に氷解する絶大の地名なのだ。

この姶良は今も鹿児島県の郡の名として使われている地名である。

そこには卑弥呼の都と突き止めた遺跡、

姫木山と姫城、鹿児島神宮などがある。

卑弥呼の語源はバーリ語の「愛」。

それがマレー語のカシーに変わったのが、

神功皇后の香椎廟の香椎で、

その当て字の1つが観世音(カシイン)でもあった。

それが雄略天皇=神武天皇の即位地・橿原にもついている。

その雄略天皇の皇居があった

長谷には今、観世音が祀られている。

こうみてくると出発点から長谷まで一貫しているのは「愛」である。

だとすれば「アイラ」という発音の姶良の真意は

「愛国(ラ)」だったことが確認できる。

愛はペマカで卑弥呼。

彼女が居たからアイラの名が今なお伝承されているのである。

ところが奈良県では雄略天皇の即位地が橿原でしかない。

それも確かに「愛」には違いないが、

卑弥呼のはるか子孫だと証言しているだけである。

ところがこの愛の系列は、

まだまだ続いていて、

我が国古代史の枢軸を形成している。

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2011年1月28日金曜日

『帝皇日継』と『先代旧辞』の二本立てが犯人

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:19頁

だからその名が反正天皇1人だけならまだしも、

代々に重って入っているのには、

確かな理由があるはずである。

よく考えてみると、

ただ1つだけ、動かせない理由がある。

それは『帝皇日継』=天皇系図と

『先代旧辞』=事件記録=歴史とが、

別々だったためだ、ということになる。

それを書いた木簡はバラバラになりやすい。

それらを拾い集めて、

それらしい天皇の記事に挿入したのが

『記・紀』編纂の実態なのである。

その上さらに『記・紀』編集担当の漢文学者たちは、

漢文の書き方こそよく知っていたが、

都夫良がトカラへの当て字の間違いだと知らず、

その誤りを訂正できなかったし、

読む皇族たちも、

時代を隔てた先祖たちの故郷のことは知らなかった。

私たちのほうが地理も歴史も詳しく熟知している。

だから「神武紀」にみるような大変な混入も起こった。

天皇家の系譜だといっても絶対ではない。

私たちが批判して訂正するしかない。

それが系譜ならその人物の勢力圏の位置を確認すれば、

その名乗りの地名を比較してみると、

その不合理が判定できるから、

その身分に応じた名乗りかどうか結論できる。

木簡は綴って巻き物にしてあるから、

こうした混入は人や時代は間違えても、

まるっきり他の系譜と間違えることはない。

だから雄略天皇たちの祖先がどこから来たか?

ということは、正確にわかるのである。

『参考』

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2011年1月27日木曜日

なぜか?全員、南九州地名を名乗る反正天皇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:18頁

反正天皇の名乗りがタジヒと書かれているのは、

種子島⇒田尻⇒但馬と変化した当て字が示すように、

種子島系だと語るが、

全国に田尻が大量に分布していて、

特定するには慎重なデータ分析が必要だと、

本講で田尻のリストをご覧に入れてご説明した。

この天皇の皇妃・皇子女の名は何を語るのだろう?。

『古事記』は、

都怒(ツナ)郎女皇后が甲斐郎女と都夫良(ツブラ)郎女を、

弟比売が財王と多訶弁郎女を、

『日本書紀』は、

津野媛皇后が香火姫皇女と圓皇女を、

弟媛が財皇女と高部皇子を生んだ、と記録している。

財はタカラで高国(ラ)、

多訶弁はタカベンで高部(べ)ン、

宝島はトカラ列島にあるから同じ名乗りだ。

するとこれは4人ではなく1人の名乗りで、

全部同じ名が姿を変えただけのものだとわかる。

都夫良は間違いなくトカラで、

当て字は都火良が正しいのである。

また、この天皇の名はミズハワケだから、

水派別と当て字すると、

ミズハの他にミナマタとも読める。

語源は熊本県の水俣(みなまた)市にあった可能性が大きい。

しかし仁徳天皇の皇子だから、

その生活圏は四国以東のはずで、

その皇女がトカラ列島の領主になるわけはない。

ではツブラの方が正しいかというと、

あるのは津村ていどで、

トカラのような広域の領地名ではなく名乗りになりそうもない。

それなのに家族全部、


揃いも揃って南九州の地名が並んでいる。

これは何故なのだろう?。

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2011年1月26日水曜日

歴代の系譜に並ぶ南九州地名の名乗り

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:17頁

雄略天皇のもう1人の妻は、

都夫良意富美=「都火良・出水・女=トカラ・イヅミ・ミ=吐葛嗽列島から出水の女王」

という人物の子だから、

今の鹿児島県人なのである。

その名は

「韓姫・カラヒメ」だ。

このカラは姶良もまたカラで、

天孫降臨の地名「韓国(からくに)」は

この姶良郡(からぐに)のことだと、

これもよくご存知である。

すると神武天皇の日向時代の皇后の名が、

「阿比良比売」だったことと、

綺麗に重なる。

阿比良=姶良=韓で、

神武天皇と雄略天皇は同じ名の皇后をもっているのである。

けれどもそれは「石の姫=イザナミ」のような、

世襲の名乗りではない。

また南九州時代の先祖とは違い近畿で活躍した雄略天皇が、

吐葛嗽列島から出水にかけて支配した女王の娘と結婚して、

南九州の支配者になる必要もないし、

なったとしても遠隔地すぎて、

本当に治めることなどできない。

だから、

これもまた古いものが混入していることは間違いない。

それなのに反正天皇の皇女にも、

やはり同じ名乗りをもつ都夫良郎女がいる。

この天皇は大阪府の泉南郡田尻町に都して、

皇后が泉南郡の水間観音にいたことが解っているのだから、

やはり南九州とは縁が切れていたのである。

それなのに、

こんなに代々、

南九州の名乗りが続くのは、

間違いではなくて世襲の名乗りだったのではないだろうか?。

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恥かしい建国史の現状。左右の論争は史実復元後に

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:16頁

もうお解りのように、

混乱はイザナギといった世襲の名乗りのせいだったのである。

ロングセラーズの本では証明不足だった部分が、

いま「イザナギ問題」が解決したことによって、

こんなに明確に結論できるようになった。

そしてさらに『記・紀』の編集者たちが、

なぜ?

混乱した神武天皇記事を書いたかも同時にわかった。

同じ名乗りの世襲が、

よく似た事件と重なって、

それを同じものと錯覚して繋ぎ合わせたのである。

それを見抜いて分析し、

真実の歴史に復元するには、

面倒でも、

これまでご覧頂いてきた系譜の比較や発音の特定、

地域の同定、事件の精密検討などで、

生物のDNAを鑑定するような作業が必要なのだ。

ご覧のように数人にみえる名乗りが、

実は同一人物のものだと証明することが欠かせない。

それは名乗りが分裂しているために、

一人の名乗りのイザナギと五瀬の命が別人にみえたり、

世襲で幾人もいるイザナギや五瀬の命が、

一人に見えたりしているからである。

だから在来の、

同一人物が幾人もの別人だとしたままの解釈や、

多数の別人を一人の神武天皇にしたままでは真実は見えない。

そんなものを

「神聖な歴史だ」

「いやウソの歴史だ」と論争しても無駄なだけでなく、

私たちや可愛いい子供達の未来を大きく誤らせる。

一日も早く真実の歴史に訂正してから、

改めて右翼と左翼が、

正しく論争することを望む。

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2011年1月24日月曜日

日向の歴史と畿内の歴史とが合成された理由と証拠

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:15頁

では『記・紀』が

神武東征を日向進発としているのはウソだったのか?。

それは別の史実のせいだ。

史実編集の間違いで、

幾つもの史実が複合してしまっているのが

『神武天皇紀』なのだから、

その真相を知れば、

なぜ日向からになっているか?

その理由がわかる。

拙著『卑弥呼を攻めた神武天皇』

(ロングセラーズ刊)にも詳細に書いた。

弟の伊支馬・垂仁天皇・位宮と、

兄の拘右制卑拘(クウジャイピク=高津兄彦)・

槁根津彦(コウニヤヅヒコ=高兄津彦)・

武埴安彦(タケチアンビコ=高津兄彦)兄弟が、

卑弥呼の男弟・泄謨觚柄渠觚(シモカピンチュウカ=下吉備津彦)・

伊声耆(イサナギ=五十狭芹彦=戦(いっ)さン君(きん))と日向の川内で戦い、

武埴安彦が戦死した記録を、

雄略の史実に繋(つな)いだためなのだ。

この話ではイサナギと戦さの君=軍君=クシャトリアとが、

同じだということが完全証明されているが、

兄が五瀬の命=伊声耆=五十狭芹彦に逆転していることもわかる。

この部分の神武は倭迩迩日百襲姫(卑弥呼)の末弟・稚武彦で、

五瀬の命は兄の彦五十狭芹彦(またの名・吉備津彦)だったのだから、

役者は揃っていても役柄は完全に正反対になる。

だから河内で負傷して和歌山で死んだ安康天皇ではなく、

3世紀の川内の五瀬の命・彦五十狭芹彦が混入したもので、

5世紀の雄略天皇と日向進発とは、

無関係だと断定できるのである。

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2011年1月23日日曜日

徹底的に解った「神武大和入り」と漢風諡号の真相

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:14頁

安康天皇が

倭王・興であり、

百済・蓋盧王だったから、

大阪府の河内を領有していたことは疑いないが、

この比較リストを見ると、

それは高千穂という当て字にも換えられることがわかる。

河内の東は奈良県。

すると五瀬の命のモデルだった彼が、

弟の武・神武天皇たちと

「東に良い国があるからそこへ行こう」と決意した

「高千穂の宮」は、

南九州の高千穂とはまったく無関係で、

大阪府下にあった「河内王の宮」のことだったとわかる。

これが史実で、

神武天皇の出発点「高千穂の宮」は、

意識的に日向から出発したことにするために

工夫した、換え字だったのが真相なのだ。

そしてこのことは、

五瀬の命と神武天皇が、

安康天皇と雄略天皇兄弟だったことを、

くっきりと立証しているのである。

だから「高市(カウチ)=興の」で、

安康が高市をとっていたこともわかる。

しかし允恭天皇に奪われて

武内・タケチ王国に変わったから発音だけタケチに変わり、

安康天皇は負傷して紀州へ行って死んだ。

弟の武はさらに南に逃れた後、

熊野から山道を北進して吉野にはいり、

そこを基地にして高市を背後から攻める平地戦に持ち込み、

高市を再び占拠したが、

そこはタケチと呼ばれていたので、

今度は発音だけタケシと改めた。

これが倭王・武は

絶対に「ブ」ではないという理由である。

淡海の三船はこの事実を知っていたから

「神・武(コウ・タケシ)」と諡号をつけたのである。

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2011年1月22日土曜日

穴穂=高千穂=河内王=高市王=武内王

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:13頁

前号の主題は「国生み」の記録が『神代記』から、

「神武天皇建国」という『人皇記』に入っていく部分の

真相復元に突入したことだったが、

今回は古来最も関心の深かった、

その神武即位問題から解明して行ってみよう。

それには「穴穂」という安康天皇の名乗りから、

もう一度、改めて精密に検討していく必要がある。

穴 穂 ケ ツ ホ  薩摩語 アナホー=あの阿呆 関西語の軽蔑詞

口 日 ク チ フ  沖縄語 口の島、日の国の入り口の島。

癩 夫 カ チ フ  大隅語 身体障害者の一種 硬い難り体の夫(ひと)

傍 居 カ タ ヒ  関西語 ” 加太の淡島神社 カタヒ国=片平

勝 日 カ チ ホ  大隅語 日の国の渉者・支配者 勝ち誇る

高千穂 カウチ ホ  大隅語 高津王 タカチホは後世の訓み方

河内王 カワチ オー 関西語 河はコウで興 カワチは後世の訓み方

高知王 カウチ オー 土佐語 高知の支配者 コーチは後世の訓み方

高市王 カウチ オー 本州語 後にタケシ王 タカイチは後世の訓み方

武内王 タケチ オー 本州語  ⇒  朝鮮半島音・ムネイ⇒武寧王

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2011年1月21日金曜日

『記・紀』は超高度知性の産物、人道上の『聖書』

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:12頁

従来は、ギリシャ神話の高度に知性的な内容に比べて、

日本神話は、

「なんと貧弱な子供だましの神話か」と、

海外で蔑視されてきた。

しかしこの例の他にも多数の実例が見つかり、

『記・紀』の内容は当時のギリシャと同じ文化と知性をもち、

それを現実の歴史に当てはめて、

人の守るべき道を教え、

高度の政治経済の原則を、

為政者たち読む者に伝えようとした実に優れた教科書であり、

優れた文学作品だったことがわかったのである。

『記・紀』は

「こういう事件は、こう裁くのだ」という判例集でもあり、

『聖徳太子憲法』以前に実在した

我が国の『憲法』を教える、

「具体的法令集」でもあったのである。

だから、雲の上というより庶民的といった方がいい恋愛や、

お家騒動や愚行、暴行が網羅されていて、

天皇家にとっては、決して愉快な文化財ではない。

しかしそれを

「帝王学」や「政治学」の教科書として観ると、

実に赤裸々に人間像を描き出していて、

正邪善悪の実態と国民の眼を強く意識させるようにしてある。

『記・紀』は対外宣伝用には不向きなほど、

恥部をさらけ出していて、

真実こそが生命である歴史記録としても、

理想的なものというほかない。

だからそれは実に高い知性の産物である。

この高さが、皇室を現代まで永続させた第一の要因だったのだ。

『記・紀』は

本当の意味で私たちの「至宝」、

人道の『聖書』なのである。

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2011年1月20日木曜日

「黄泉戸喫(よもつへぐい)」は古代ギリシャの古い法律

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:11頁

それはもういうまでもなく、

古代ギリシャの法律だったのである。

しかしこの話の原話がギリシャ神話中の

「オルペウスの冥界降だり」であるからというのではない。

オルペウスとこの話は細部ではだいぶ違っている。

ただ着想だけを利用して、

実際にあった歴史を巧みに表現したものが、

伊弉諾の尊の

「黄泉(よみ)の国、降だり」だというのが正しい。

ギリシャの黄泉(よみ)の国の王・ハデスは、

ゼウスと収穫の女神・デメテルとの

娘・ペルセボネを誘拐して黄泉に連れて行った。

デメテルはゼウスに娘を取り返すように裁きを求めたが、

ゼウスは弟にワイロを貰っていて、

妻の頼みをきかない。

デメテルは怒って大飢饉を起こす。

困ったゼウスは

「ペルセポネが黄泉で何も食べていなかったら連れ戻せるが、

もし何か食べていたら、所属を決める古来の法律によって、

ペルセポネはハデスの客ということになり、ハデスの妻になるしかない」

という裁定を下した。

ところがデメテルに恨みをもつ庭師が、

飢えと乾きに苦しむペルセボネに、

水々しいザクロを与え、彼女はそれを食べてしまった。

ハデスはオリンボスの法廷で、

その事実を証拠に「彼女は私の正当な妻だ」と主張したので、

デメテルは敗訴してしまった。

この古代ギリシャの珍しい法律が、

そのまま伊弉冉尊説話でも

「黄泉戸喫(よもつへぐい)。戸=国籍」の法律として使われ、

国民を納得させていたのである。

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2011年1月19日水曜日

聖徳太子の十七条憲法以前に憲法があった証拠

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:10頁

いま私たちがここでお話ししている「建国」の時代とは、

この法と力が備わって、

国民がそれを認知した時、ということなのだ。

古墳時代の甲冑(鎧兜)はギリシャ式の立派なものが出土しているから、

武力で優勢だったことは確かだが、

応神天皇たちはそれ以外に法律をもっていたのである。

これまでは聖徳太子が定めた十七条憲法が、

我が国法制化の最初だと教えられてきたが、

それはこの建国の条件を考えると、

根本的に間違っていたことがわかる。

成文化したものが見つからないだけで、

法律のない国家というものは考えられないからだ。

だから允恭天皇が、

氏姓を偽っている国民を摘発するのに、

手を熱湯に入れさせたという

「探湯(くかだち)」は古代法の施行例の1つであって、

そうでなければ国民は、

そんな裁決方法を承認しない。

倭国には当然、そうした法律があったのである。

その事実を伊弉諾・伊弉冉2尊の物語も、

また明快に立証している。

それはいつ?、

何処で?、

生まれた法律だったか?。

イザナギはイザナミを連れもどそうと黄泉国(よみのくに)へ行って、

妻に地上へ戻ろうと誘うと、

妻は

「私はもう黄泉戸喫(よもつへぐい)を

してしまったので戻れない」と、

夫が早く迎えに来なかったことを、強く非難する。

在来の学者はこれを単なるお伽話の一節として、

何の考証もしていないが、

この話が、

古代日本に法律があった事実と、

その文化の源がどこかを記録していたのである。

『参考』

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2011年1月18日火曜日

「古代国家」建国の条件

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:9頁

応神天皇は神話どころか、

統一国家をつくった生ま身の天皇だった。

ではなぜ?…それが可能だったか?。

武力が優れていたからか?。

国家というのは、

単に土地を占拠すればいいというものではない。

そこに住む国民がいて、

何かの産業に従事し、

その経済力を活用せねば王も軍人も役人も、

その国を維持して行くことはできない。

たとえ敵には負けなくても、滅びてしまう。

しかしどんなに原始的でも経済活動には、

利害が相反するジンクスがつきまとう。

労働は時間と体力と資本を消耗する損失であり、

その結果得られた収穫の代価=収入がその損失を上回らなければ永続きしない。

その体制は滅びてしまう。

けれども代価を払わずに収穫を奪い去る盗賊がいる。

ところが古代社会を支えていた農水産業は、

広い面積の土地や水域から収穫するしかないから、

不眠不休で見張っているわけにはいかない。

だから常に盗まれ、紛争が起こる。

それを防ぐには強奪者を

捕らえて処罰する強い警察力がいり、法律がいり、

それらを支える権力と給与がいる。

さらに必要なのは侵略者を撃退する兵力で、

これらがなければ国民が従わないから、

国家も政権も成りたたない。

だがそれには国家の構成と、

不正を処罰する根拠になる法律と税収がなければならない。

『参考』

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2011年1月17日月曜日

ポントス母子はギリシャ系の実在者だという再確認

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:8頁

しかし、そのため最も重大な問題を忘れて、

捨てておいてはいけない。

それはボントスもサオ姫もギリシャ神話の中にある名だから、

応神天皇の話は神話なんだと即断する人が出る可能性があるからだ。

それを防ぐにはどうすればいいか?。

史実だったから壹與は金髪で、

赫夜姫(かぐや)のモデルになったのだが、

それよりギリシャ神話との違いを明確にすればいい。

もちろん、古代ギリシャで語られていた神話の全てが、

今まで残っているわけではないが、

この違いを証明するためなら、

残っている部分だけで充分である。

そこには名前だけでなく相互関係が明瞭に書いてある。

狭穂姫の例でいえば、

ボントスは祖父でサオは孫娘である。

ところが我が国の垂仁天皇記にあるのは、

狭穂姫は母で、ポントスはその息子である。

だから、この話がギリシャ神話の借り物だったのなら、

『狭穂のはやさめ』物語は珍妙なものになる。

狭穂姫はナンと、

自分の祖父を生むという奇想天外な話になって、

読者の涙を誘うどころか、

とんでもない時空アドベンチャーになってしまうからである。

しかし真実は、

母と子がギリシャ人の名をもっていたというだけで、

神話の筋書きとは何の関係もない、

現実にあった事件を記録したものだと確認できる。

ここまで考え説明して、

始めて「応神天皇の記事は神話ではないか?」

という疑念を一掃できるのである。

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2011年1月16日日曜日

ポントスの母・狭穂姫もギリシャ名だった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:7頁

この③のネレウスがドリスと結婚して生んだ、

ポントスの孫たちを、ネレイデスと呼ぶが、

前にお話ししたアムピトリテ(奄美・取手)もその孫の一人である。

その中から、

もう少し挙げると特に重要なのは

サオという女性がいることである。

本都別を生んだ後、

火中に身を投げて死んだ母・狭穂姫は、

この名を継いだものだからだ。

またキューモとキューモトエがいる。

これは沖縄発音チューマで中馬。

キューマで久間、

モトエはムッツゥて六合(ムッツゥ)と陸奥(ムツ)。

エウリメネやデュナメネの「メネ」は

沖縄語だと「ミニ」で「嶺」だから、

エウリメネは百合嶺。

デュナメネは与那嶺になり、

イオネは魚嶺、

デイオネは出尾根という当て字を生む。

アガウェというのは龍舌蘭の学名になっているが、

アガウに対する当て字は吾郷、阿川で、

今も姓としてよく知られているし、

明石の前の南都・赤穂(アコウ)も語源はこの清音なのである。

クラントというのもある。

これは蔵人と書いてクランドと発音する名詞の語源だと言える。

アクタイエは芥川のアクタで、イエは家。

熊本県の飽田はアキタと発音するが、

知らなければアクタと読む。

その熊本に本渡や栖本(すもと)、

津奈木が分布していて、

応神王朝の母体だったのだから、

この飽田もアクタイオンが語源だとして間違いない。

まだまだポントスの曾孫以下、

多数の名が記録されているが、

今ここで必要な立証には、

これで充分だとしておこう。


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2011年1月15日土曜日

ポントスが語源だと立証する彼の子の名前

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:6頁


海洋・ポントスは、大地・ガイア(ガヤ・ゲー)を妻にして、

次のような子供を生んだ。

① ボルコス  南九州語化 ホイコシ堀越・ホイクッ堀口。
本土語化  ホリコシ堀越・堀ロ。
沖縄語化  フルグァ古河。
本土語化  フルカー古川、⇒コガ古河・古賀。

② タウマス  沖縄語化  タウマ当間、当麻。
薩摩語化  トウマ投馬、藤間。クマ多摩。
日向語化  ツマ妻。
本土語化  トモ鞆。トウマス十桝。トウマツ唐松。

③ ネレウス  沖縄語化  ニリ仁禮、楡。
本土語化  仁禮、ニレオ楡尾、ネリウマ練馬。

④ エウリピヤ 沖縄語化  ユリバ百合葉 ユリビヤ由利宮。
大隅語化  ヨイミヤ 宵宮。
南九州語化 ユイバ結場。
本土語化  ヨルミヤ 夜宮、エリ江利・江里。

⑧ ケトー   薩摩語化  ケトー祁答。ケドイン祁答院。
大隅語化  キヅ木津、
本土語化  ケトー毛唐。キトー鬼頭、
キドー木藤・紀藤、キド木戸。

今では、これらの基本型が、

その後の読み替えによって、

掘越がホリゴエになり、

藤間がフジマになり、

鬼頭がオニコウベになるなどしているが、

これだけ地名・人名に一致が見られるのは。

語源がポントスと同じく、

その子供たちの名にあったことを証言している。

そうしてそれはポントスが本都和気の語源だったことを、

立体的に立証しているのである。

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2011年1月14日金曜日

本都和気の語源は本当にポントスか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:5頁

以上で応神問題は、ほぼ片付いたが、

講義録(院)13では、やや簡単に済ませた部分がある。

それは名替えをしたボントスの部分である。

ポセイドン、

アンビトリテ、

アフロディテなどの名の実在を証拠に、

彼も海人王だから当然、

海神の名を名乗ったと納得してきたが、

それは傍証に過ぎず動かぬ証拠ではない。

そこへ他の語源にも見える名が、

次々に見つかってくると、

ポントスは本当に語源だったか?と、

不安が残っているはずである。

これはどう処置しなければならないか?。

同じ問題は名詞の復元と考証には、

常に起こるから、それはどうすればいいか、

このポントスを利用して、

よくご記憶いただけるようにしておこう。

本学の目的は、

自説を早く世に出したいと、

焦って結論を急いで、

粗末なまま発表するいう浅薄なものではない。

可能な限りの証拠を集めて動かぬ史実を復元し、

読んだ人に絶対に間違いない!と納得し、

確信してもらえる証拠力がなければ、無に等しい。

それには、やはり

「系譜」を活用するのが一番である。

一つの名だけでは、

偶然や他人のソラ似ということがあるから、

絶対だと主張することはできない。

だが神名や人名などなら、

その一族の名や系譜がわかるものがあるから、

それらも語源として使われているかどうか?、

よく検討してみれば、

その有無で動かぬ結論が出るからである。

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2011年1月13日木曜日

『記・紀』は『ギリシャ神話』の継承物だった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:4頁

倭国の王が国を失ったあと出雲へ去ったのは、

『サカ⇒サタ』の歴史の終末で

京都の嵯峨から島根の佐太へ移った大神として検討ずみである。

これも1個人ではないことの証しだ。

では応神と同じ系譜の持ち主はどの大国主なのだろう?。

それは同じ名をもっていたことの確かな

「名替えの当事者」以外にはいない。

応神の系譜と錯覚したのは品陀真若の系譜で、

彼が引退した大国主その人だったのである。

彼が名替えしたのは津奈木。

そして出雲に引退した。

この出雲の自然な読み方は「イヅウン」。

その短縮型・イヅンは出水で、

そこは津奈木のすぐ南という地理条件まで、

島根ではなく薩摩が舞台だったことを証言している。

だが『記・紀』の大国主の国譲りは、

『ウラノスの国譲り』丸写しなのである。

そんなものを、わざわざ掲載してあるのは、

「こんなことも起こるぞ。気をつけなさい」

という警告として役立つことを考えると、

『記・紀』そのものが本来、各部族のもっていた文書を集めて

編集した家記の集大成だったのだから、

その内容は歴史記録ばかりでなく、

家訓も入っていたことは間違いない。

部族の長は皆「為政者」である。

その為政者のための「教科書」だったものの遺物が、

いかにも『正史』らしく編集されて『記・紀』になったもので、

それは間違いもなく、

同じ目的とスタイルをもつ『ギリシャ神話』の継承物だったのである。

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2011年1月12日水曜日

日本人の死活を分ける国史教育大転換

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:32頁

天皇家が、

武家政治時代に実質的支配力を失いながら、

中国歴代20数王朝のように滅亡することなく現存しているのは、

土人の酋長が唱える単なる故事つけ神話や妄想神話ではなく、

シュメル~ギリシャ~インドの先進文明を、

3000年を超えて伝え続けてきた、

高度の文化所産である

神道の「人倫哲学」が、

皇室の基盤を確固としたものにしていたからである。

なのに欧州・中近東では、異教文化に改宗した王家が、

20世紀までにほとんど絶滅して、

その愚行の具体的証拠に過ぎないピカピカの王宮を残し、

恥を永く宣伝し続けているのは、

そうした高度の

「国民を主(しゅ)にした真の政治」を忘れて、

勝てば官軍式の王権神授説を国民に押しつけた

「成金」王族が、

一時的な僥倖を永続するものだと錯覚し、

自分たちを「神」と過信したためで、

私たちからみれば、

あわてて「自殺」した愚か者たちにしか見えない。

いま娯楽や酒食に溺れる国民をみて国を憂える余り、

明治以革の愚行の弁護に懸命の人もいるが、

それが、国連の5分の1の出費を賄いながら、

安保理の常任理事国にさえなれないガンになり、

天皇家の立場もまた悪くしている。

しかし我が国建国の史実復元は素晴らしい展開をみせて、

私たちが戦後もった劣等感を一掃した。

今こそこれを最大限に活用普及して、

国民に生命と祖先の甘とさを自覚させる

「新しい知性教育」への、

大転換が必要だと思う。

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2011年1月11日火曜日

応神天皇は国を譲って出雲へ移った大国主か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:3頁

大国主の命の系譜は、間違いなく応神天皇の系譜だった。

「エッそれなら応神天皇は出雲へ引退したのか?」と

お考えになった方もあったと思う。

史実だとすれば大変なことだ。

応神天皇は熊本の津奈木(角鹿)で

初代ポントス=本都別=品陀真若と名替えして、

倭韓にまたがる大政権を受け継いだ後、

子孫が淡路島を拠点に和歌山に渡り、

奈良に及ぶ畿内を初めて領土に加えた

広域統一政権=大和政権の基盤を作り上げた

はずだったからである。

それなのにその出発点で山陰に引退してしまっては、

大変な大問題で放置しておけない。

大国主の語源が「大ウ」「国ラ」「主=ヌシ」。

ギリシャ神話の宇宙の支配者・ウラノスであることは、

我が国古代の王や国が

ギリシャの神名を名乗る数多い証拠で疑う余地はない。

だから在来の定義のような固有名ではなく称号だから、

譲られたり世襲したりする名乗りの一つだ。

すると応神天皇が大国主であることは事実でも、

国譲りをしたのが必ず応神天皇だということにはならない。

大国主の別名は、

大己貴、

葦原色許男、

八千矛、

大国魂、

奇甕玉、

伊和、

出雲御蔭、

宇都志国玉、

広矛魂、

兵主、

大地主、

杵築、

幽事知食などと多い。

そのほか卑弥呼を祭る

鹿児島県国分市の大穴持神社以下多くの国譲り該当者のものがあり、

孝徳天皇まで入っている、

奈良県の大神(おおみわ)神社の大物主の神は

『三輪山伝説』の大蛇だという。

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2011年1月10日月曜日

『萬葉集』にも色濃く残るギリシャ系王国の名残り

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:31頁

真実の我が国の歴史は、

はるか紀元前に国家をつくり、

のちに百済(ホセイ)という当て字をもった

ギリシャ文明の先端が、

ソナカの仏教文明と複合して築き上げた高度文明国家で、

その高さは古墳文化などが、

出土品だけでなく様々のファクターで、

次々に実証し続けている。

その百済国は、移動とともに発音が変わり、

ホーライ⇒ホーレイ⇒ホゼイ⇒ボセイ⇒フジィ⇒ハツセイ

⇒ハツセ⇒ハセ⇒オオスミ⇒ウースン

⇒ホヅミ⇒モズミ⇒マヅミ⇒マヅメ⇒マツラ

⇒クダラ⇒モモダリ⇒パクチェなどと変化した。

この建国期の史実も知らずに、

百済とはクダラと読むとしか知らない連中が、

それを半島の独立国、

皇室とは無関係な外国だと信じて、

教えつづけてきたという無茶苦茶な国が、

私たちの現代日本だったのである。

しかしこの発音を写した

穂積皇子や伯瀬部皇女の名乗りは

『萬葉集』にまで並んでいて、

皇室の由来が、

消えることなく伝えられ続けているのを、

見ることができる。

その穂積皇子の歌は

「降る雪は

劇(あは)には降りそ

吉隠(よなばり)の

猪飼(いかい)の丘の寒からましに」

だ。

ヨナバリ=与那の巴利=ギリシャ人の都の名も見える。

柿本人麿の高市皇子への弔歌には、

「言(こと)さへぐ百済(ほづみ)の原ゆ

神葬(はふ)り」という一節がある。

神社や陵は、

神=貴人を祭ってあるのであって、

伊弉諾神宮でも八幡宮でも、

架空の神話の空想の産物を迷信しているのではない。

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2011年1月9日日曜日

紀元前660年の建国は真実だった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:30頁

「発音は地域で変わる」、

「漢字は色々に読める」という常識を考慮に入れさえすれば、

こんなに鮮やかに史実が再現し、

復元できるのである。

だから五王が名乗った百済の国は、

それもまた移動し拡大を続けて、

文字は同じでも中身も発音も別々だったのである。

それは台湾を出発点にして5世紀には奈良に到り、

京都に移り、東京に遷都して現代に至った。

ギリシャ人が東洋に入ったのは、

アレクサンドロスのインド東征が最初だと考えている人が多いが、

紀元前6世紀以前に書かれた

『ホメロス序章』には、

マレーから

「日の大神の国タイナロン=臺国(タイナ)ロン」という名で

台湾の語源になった国名まで、

多くの地名が、

それぞれ正確な位置に書かれていて、

古代ギリシャ人が台湾をよく知っており、

実際に往来して得た知識だったことを、

拙著『誰が巨大古墳を造ったのか』p・64以下に、

詳しく書いておいた。

このことでも古代ギリシャ人が我が国に来ていたことは疑えない。

しかもその人たちが、

応神天皇という

「真の大和朝廷の皇祖」と確認できた人を出したのである。

紀元前12世紀まで続いた

殷帝国が、

稲敷人が中国まで移住して建てた国だったのだから、

『日本書紀』が

我が国の建国を紀元前660年だと書くのは

このギリシャ王朝の建国で、

それには高度の文明による真実の根拠があったのであり、

決して出鱈目な誇張ではないのだ、

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2011年1月8日土曜日

建国史の解明になぜギリシャ神話知識が不可欠か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:29頁

私たちは、

熊本県の天草地方が、

応神天皇系の地名を多く残していることを知っている。

品陀真若や誉田別といった名乗りは、

ギリシャの海神・ポントスを固有名にしたものであり、

今、

天草の首都の名として使われている

「本渡(ほんど)」も、

やはりその当て字の1つだからである。

また出水からそこへ行くコースには、

津奈木(つなぎ)、

御所の浦、

栖本(すもと)という地名が並んでいて、

淡路島の津名と洲本に対応し、

淡路島を基地にして近畿を制覇し、

大和朝廷を樹立した倭の五王たちが、

ポントス=応神天皇一族だったことを、

徹底的に立証し尽くしているのだった。

その淡路島(アフロジマ)という名もまた、

海から生まれた美の女神・アプロディテに対する当て字で、

ギリシャ神話の知識さえあれば、

彼らの出身は迷わずにわかる。

台湾のギリシャ人が

沖縄⇒種子島⇒大隅⇒出水⇒天草⇒宇佐⇒四国⇒淡路島⇒紀伊⇒和泉⇒河内⇒大和と、

拡大移動を続けて、

ついに大和朝廷を確立した。

これがわかると倭の五王の名乗りには、

倭のあと1番目に、

なぜ「百済」が来るのか始めて理解できる。

それを朝鮮半島だけにあった独立国だと錯覚していては、

この国名のナゾは絶対に解けない。

5世紀の半島百済(パクチェ)は小植民地に過ぎず、

7世紀の本国は

大阪市の十三(じゅうそ)と中津にあった。

登美(トミ)能那賀須(ナカヅ)泥毘古はその名乗りだ。

これらを知らずに日本の古代史を語る資格があるか?、

答は申し上げるまでもないと思う。

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2011年1月7日金曜日

大隅と出水に進出した百済人(ポセイドン)のその後

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:28頁

その南九州人が、

種子島のナガタニ=長谷一帯(南種子町長谷(はせ)ン野)に

移住したことも、

チョウコクという漢字を「ハセ」と読むことでわかる。

「百済」を「ハツセ」と読むのは、

これも南九州人の癖だからである。

そこで勢力を蓄えて、

次に移住した土地もわかっている。

それもご存知の通り

「百済」もオオスミと読めるから大隅なのである。

この移住には「サカ⇒サタ」という大移住の標識地名が、

今なお現存していることもまた、

よくご存知である。

その時もう一波の移住者が鹿児島県の出水地方へ移った。

彼らも大隅人と同じく沖縄訛りを話したが、

百済は大隅という新しい当て字に変わったことから、

ウースンと呼ばれるようになったので、

出水への移住者は、それと区別するために、

ポセイドンの後半を国名にして

イヅンと発音するので「出海(イズウン)」、

のちに「出水」という当て字を使った。

ヅはドの沖縄訛りだから、彼らの方が大隅人以上に、

沖縄訛りが強く残っていた人々だったことがわかる。

出水から北へ一山(ひとやま)越せば

熊本県の球磨(くま)地方である。

ここから大隅の曽(ソ)於郡地方までを一括した地域名が

「熊襲」であることは、

古来よく知られた事実である。

その熊襲は

「肥・日」をクマと読み、

ソに「素」の字を使った当て字によって

クマモトと呼ばれるようになった。

またモトに「本」の字を使うと「熊本」だから、

次の発展地がどこか簡単にわかる。

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2011年1月6日木曜日

百済人をポセイドンと読んだのは南九州人

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:27頁

それは不思議でもなんでもない。

その人たちはギリシャ系で、

漢字については何の知識もなかったから、

漢字もアルファベットのような「音標文字」だと思っていた。

だから本来の漢字の発音とは無関係に、

適当な発音で読む習慣をもっていた。

それは今でも続いている。

あなたもそれを不思議とは思わずに、

飛鳥と書いてあるものをアスカと読み、

春日と書いてあるのをカスガと読み、

大和と書いてあるのをヤマトと読んでいらっしゃる。

しかしよくよく考えてみれば、

飛鳥はヒチョウという漢字で、

なぜアスカと読むのか不明だし、

トブトリと読むのも私たちの勝手な読み方で、

日本語を知らない中国人にはできない。

これと全く同じことが

「百済」という漢字の上にも起こって、

百をフやホやボと読み、

済をセイと読み、

人をドンと読んだのである。

それは人を呼ぶのに、

敬称として「ドン」と呼ぶ

南九州人が使った名詞だったこともすぐわかるし、

サイという発音の「済」をセイと読むことでも、

それが薩摩訛りだとわかるからである。

だから百済人をボセイドンに当てたのは、

薩摩人であり、

彼らが台湾から沖縄経由で来た

ギリシャ人の子孫だった、とわかるのである。

今も鹿児島県には、

アレクサンドロスを想わせる力士の寺尾や、

俳優の榎木孝明のような、

ギリシャ系の容貌とスタイルをもった人が多い。


そのDNAの濃さも重要な証拠である。

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2011年1月5日水曜日

百済は台湾のギリシャ人国名への当て字

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:26頁

ということは、

倭済(オオスミ)はオースミで大隅、

それはオをホと書く大隅語ではホスミで、

百済(ホスミ)もその当て字の一つ。

ところが百済(ヒャクセ)は

種子島ではハツセ=長谷がそれだった。

さらに沖縄では、

百済(ホセイ)はフジイ、またはフジ。

これはベル=鈴を、

関西ではリンというが、

南九州語ではジンと発音するからフジイはフリイ。

沖縄語のフは南九州語ではホだからホリイ。

これは

台湾の古名・蓬莱(ホーライ)の発音変化・ホーレイの沖縄訛りだとわかる。

蓬莱はギリシャ神話の季節の女神・ホーライが語源だとわかっているから、

百済は最初「台湾の古名」そのものだったのだ。

だが百済は、

ポセイドンへの当て字だったことを私たちは確認している。

ではホーライとどちらが本当の語源なのだろうか?。

それは台湾のホーライのほうが古いから語源である。

紀元前219年に秦の始皇帝が、

不老長寿の仙薬を求めて、

方士(ほうし)の徐福らを仙境「蓬莱」などに

派遣したことが記録されているからだ。

当時、台湾にいた薩摩人の先祖たちは、

その国をホーレイと呼んでいた。

それが沖縄に移住するとフジイと呼ばれるようになった。

沖縄は南中国人の往来が激しく当然漢字が使われていたから、

それに対して百済という当て字が生まれた。

ところがその百済人たちは海人族で

ポセイドンの信徒だったから、

百済人という漢字は、

ポセイドンと読まれるようになった。

なぜか?。

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2011年1月4日火曜日

国土と名乗りの世襲と新領土の行方

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:25頁

それが倭の五王が名乗った名乗りの最後に書かれた「個有名」と、

その最終占領地名とが一致する理由でもある。

王名が新所有者の名として、

その国の代名詞になったのは、

家や車が「○○さんの家」、

「××さんの車」と呼ばれるのと同じことである。

倭の五王の場合はそれが見事に揃っている。

これほど動かない証拠はないはどだから、

疑問は残らない。

そしてその領土が受け継がれると、

その新王の名乗りは当然、同じになる。

これが名乗りの「世襲」なのである。

それは『宋書倭国章』が記録している

五王の名乗りを比べてみれば、一目瞭然である。

「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・

六国渚軍事・安東大将軍・倭国王」は、

武のときに加羅が殖えて七国になっただけで、

あとは全部同じである。

だから、名乗りのこの部分は、

「世襲」と呼ぶ以外に表現のしようがない。

その世襲部分に新たに加わったのが、

王の「固有名」を新たに国名にした、

讃岐から高市までの国々だったのである。

では、それはなぜ?

世襲名の上に追加されなかったのであろう?。

それは百済という国名を考えればわかる。

この字は「モズミ」と読める。

堺市の仁徳天皇陵のある地域を

『記・紀』は毛受耳原・百舌鳥耳原と記録しているが、

どちらもモズミハラで「百済の巴利=都」である。

堺は和泉=倭済、

それが百済の中に包含されていたのだ。

『参考』

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2011年1月3日月曜日

新支配者の固有名が新領土名になった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:24頁

しかしここで、

よく考えて結論しておかねばならないのは、

「国名が先にあって、

それを取って領土に加え、

それを名乗りに加えたのが真実ではないか」という考え方である。

これに対する答えは、

実際に分布している我が国の古代国名の分布状況が教えてくれる。

国名は常に同じ大きさで移動し、

分布しているのではない。

所により拡大したり縮小したりしている。

しかしいま私たちが問題にしている

「建国期の国名」に限ると、

『魏書倭人章』に記録された旁国は、

巴利国と播磨。

倭国南端の奴国(種子島の野間)と

伊都国東南の奴国(福岡県三瀦郡)。

弥奴国と美濃。

姐故国と茅淳と津名・紀伊などは、

すべて3世紀当時は町村程度だったものが、

移動によって国郡クラスに拡大したことを明瞭に記録している。

それらをみると、

大国の播寿が先にあって、それが西に移動して、

小さな巴和国(現在の鹿児島県隼人町)になったのではなく、

3世紀に巴利国のはうが先にあって、

そこから出た人々が移動して現存する

播磨=兵庫県の大郡にしたのであるし、

奴国も離島の小町だったものが邪馬壹国誕生によって、

あっという間に北九州の中央に移り、

人口2萬戸の大国に膨れあがったのだった。

弥奴と美濃も、姐奴と津名と紀伊も全て同じで、

その逆ではない。

だから新しい国名は、

その移動先を王の固有名で呼んだために、

生まれたのだとわかる。

『参考』

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2011年1月2日日曜日

御所、橿原、桜井の地名が語る史実

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:23頁

御所の名を今に止どめる奈良県の御所市は、

その高市郡にある。

そこが雄略天皇の都で、

天皇家が最初に足跡をしるした所だからこそ、

以後、

次第に移動して至るところに生まれた御所は

地名にはならなかったのに、

ここだけが記念すべき「御所」の名を

永久に残す誇りを誇示しているのである。

では神武即位地として有名な橿原市はどうなるのであろうか?.

そこは御所市の北に隣接している。

カシーは愛。

原はハイ=ハリ・巴利で都。

愛は卑弥呼と同じだが、

その名がパーリ語のペマカでなく、

後世のマレー語の愛・カシーに変わっているので、

ここは福岡の香椎宮より後の、

卑弥呼の後継者だった女王の都だと明瞭にわかる。

だから雄略夫妻は同居していない。

それは仏教徒で、

むしろ女王が上位だったからである。

その橿原市の北隣りが桜井市である。

同じマレー語で「イ」は王のこと。

桜王の領地だが、

ここには一時、

卑弥呼の基だと言われた箸基がある。

もうおわかりのようにこの墓はペマカでなく、

カシー女王の墓である。

それを倭迩迩日百襲姫の墓だというなら、

それは倭王・興が仁徳天皇陵より後に造った崇神天皇陵に、

添えて造った百襲姫陵で神社と同じもの。

そこに卑弥呼の遺骸が眠っているわけではない。

そして付近に観音を祀る長谷寺がある。

ここを占拠した雄略天皇らが、

姫講様(ヒメコさあ)を信奉する政権だったことも、

また明白である。

『参考』

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2011年1月1日土曜日

五瀬命の複数のモデル実在が語るもの

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:22頁

しかし五瀬の命のモデルは倭王・興一人ではない。

それは拙著

『卑弥呼を攻めた神武天皇』に詳しく書いておいたが、

遠征して兄が戦死した事件は、

神武東征記事の芯になった位宮の、

卑弥呼政権打倒の戦いもそれで、

それを裏返しに見た

崇神天皇紀の武埴安彦の乱の戦死者は、

大隅語で

「武埴・タケチ=高津=高族、安・アン=兄、彦・ピコ」が

正確な読み方だから、

『魏書倭人章』が記録した

「狗右制卑拘・コウジャイピコウ=高津・兄・彦への当て字」で、

拘奴国王その人であり、

位宮の兄である。

間違いなく

神武天皇の兄・五瀬の命=イザナギの位置にいる。

だから狗奴王は女王には属さなくても

血統は同じだったことも同時に証明しているから、

神武東征は五瀬の命に至るまで

複数のモデルが複合していることがわかる。

それを不明にしたのは、

イザナギが世襲で実は複数のイザナギが居るのを一人と誤解して、

個人名のように扱った

『記・紀』編集者に罪があるが、

天皇たちの名乗りを、

個人名として教えてきた学者たちの罪はさらに重い。

そのために日本人は永いあいだ、

世界の人々の眼に低級で恐ろしい

非文明人としか映らなかったからである。

日本人はもちろん世界の人たちが、

一日も早く、

この私たちの発見した真実の歴史を、

ごく日常の常識にしてほしいと願うのは、

皆さんもご一緒だと思う。

会員の皆さんのご尽力がどんなに尊いか!

ご実行を祈るのみだ。

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