2011年3月31日木曜日

日本国の色名はデウカリオンの一族から

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:6頁

しかしその色名の発音が、

ギリシャ語となら共通であること、

また四方に色の名をつける習慣も、

共にギリシャ文化の特徴だったことも御存知である。

それは古代ギリシャの遺跡に今も使われている。

<アルバニヤ>という国名は、

<アルビノ>というラテン語で「白の国」だとすぐわかる。

その首都名の<チラナ>も、

鹿児島の<開聞>(シラキッ)と<知覧>とに一致する。

その<白>が<シラキウス>時代には、

<黒>は<クロアチヤ>、

<赤>は<アカイヤ>、

<青>は<アイオリヤ>だった。

この<シラ>、<クロ>、<アカ>、<アイ>の発音が、

日本語と共通であることは小学生でもわかる。

語源は、

<黒>は<クロノス>、<白>はシレノスだったが、

残りの日本語の色名は、

ギリシャ神話の

大洪水の主役・<デウカリオン>の子孫の名から出ている。

<デウカリオン>は<ピュラー>と結婚して、

ギリシャを<ヘレニヤ>と呼ばせた絶世の美女、

あのトロイの<ヘレン>を生んだ。

彼女は<オルセイス>と結婚して

<ドロス>と<クストス>と<アイオロス>を生み、

<ドロス>は自分の国民を<ドリス>と呼んだ。

<四神>とは無関係だが、

これが<ミドリ>(緑)の語源になった。

<クストス>は<クレウサ>と

結婚して<アカイオス>と<イオン>を生んだ。

<アカイオス>は<アカイヤ>(赤)を、

<イオン>は<イオニヤ>を治めた。

この<イオニヤ>がパーリ語で<ヨーナ>に訛ったから、

沖縄では<与那国>になってしまった。

<アイオロス>は<テッサリア>を治めたので、

国名を改めて<アイオリス>(藍)と呼んだ。

『参考』

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2011年3月30日水曜日

四神思想は絶対に中国のものではない

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:5頁

うっかりしていると、我が国の<四神>の<中央の黄>は、

<麒麟>の<麒>が語源のように見えるのだが、

それは何でもかでも古代文化は中国から入ったという、

根本的に誤った先入観しか、もっていないからで、

も少し精密に世界史を読みさえすれば、

我が国の建国以前の世界の先進国は、

北の中国ではなく、

エジプトからバビロンまで、すべて西に集中していることがわかる。

ギリシャとインドは紀元前4世紀には、

<アレクサンドロス>の東征で一体といっていいほど固く結びついていたし、

<釈迦>はそれ以前に人類最高の哲学を生んたが、

その母体は西に海をへだてただけの

<シュメル>(現在のイラク)大文明があったことは、

その須弥山(シュミせん)(シュメルを象欲したもの)崇拝でよくわかるし、

インドと中東・西欧は大規模な往来と混血を繰り返していた。

その証拠に<インド-アーリヤ語>は、遠く北欧の隅々にまで行き渡っている。

また<五彩圏>の<中央の黄>は、

<黄泉の黄>でもあったことは、

<ペルセポネ>の<黄泉戸喫>(よもつへぐい)の説話で、

古代ギリシャの法律であり、

その執行者=王を意味する<キ>でもあることがわかるとお話しした。

この<五彩圏>の色の名の<キ>も、

<王>を意味する<キ>(君のキ)も、

ともに日本語なのだから、

中国語の<麒麟>の<麒>ではない。

また周囲に配置された<四神>の色名も、

全て日本語で読んでこそ意味が通じるが、

中国語の発音では何の意味もなく、見つけることもできない。

『参考』

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2011年3月29日火曜日

隋代には中国にも入っていた我が国の四神

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:4頁

これに対して我が国の<四神>は、東西南北にはどの方向も、

特に尊いとか下座(しもざ)だという差別はない。

最も尊いのは、中心の「黄」の位置だけなのである。

ところが中国にも、

隋代になると東西南北に

<青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>を配置した鏡がある。

唐代に書かれた小説の『古鏡記』に、

はっきりと

「中央の紐(ちゅう=摘(つま)み)には

麒麟(キリン)が、

その四方には亀・竜・鳳(おおとり)・虎が鋳出されている」と書いてある。

これで初めて五彩圏の中央の「キ」に、

「キリン」の「麒」が当てられたことがわかるのである。

隋唐の支配者たちは中国の先住民ではない。

<高句麗>という国名とカリエン人の<貝貨交易>と、

<倭迹迹日百襲姫>と書かれた

<卑弥呼>たちの「孝霊天皇系譜」で明らかなように、

朝鮮半島北端の<高句麗>地方は、

3000年前から沖縄系の人々の居住地だったが、

それから分かれた「鮮卑」と呼ばれた人々が、

今の中国東北区から中国に入って、

<五胡十六国>時代に中国を征服して、隋唐時代をっくったのである。

それは7世紀の初頭以後だから、

<卑弥呼>時代からははるかに後世である。

その<卑弥呼>時代以前の中国鏡には、<四神>を描いたものなど1面もない。

さらに考えると<項羽>と<劉邦>の<方角思想>は「上下階級思想」で、

敵対支配関係なのに対して、

我が国の「四方拝」は、

順序はあるが四方を平等に尊崇する和(なご)やかなものである。

『参考』

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2011年3月28日月曜日

我が国の四神とは全然ちがう古代中国の方角意識

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:3頁

戦前は元旦に「四方拝」を行なう習慣が普及していたが、

その四方の神の正体は、

<青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>という「四神」である。

在来の学者は、その「四神は中国の文化を輸入したものだ」と、

さも権威ありげに教えてきた。

だが中国には我が国の<神道>はない。

近いものは<神仙>を崇拝した<道教>だけだ。

その道教の「四神」も隋唐以後になると我が国のものと同じになるが、

それ以前の方角思想は、我が国のものとは根本的に違っていた。

その証拠は、

漢の建国史で最も有名な一場面である

<項羽>と<劉邦>の「鴻門の会」に出てくる。

常勝将軍の<項羽>はづかづかと席に入ってくるなり、

西の椅子にどっかと座る。

<劉邦>は南の席に案内された。

これは何を意味したか?。

西の席は東に向き日の出の方角を見る最も縁起の良い最高の席である。

これは南面する北の席も同じく明るい太陽に対面する意味があったので、

天皇は南面し、

最下位の武臣は北面して座るので

『北面の武士』という特殊な呼び名も生まれたが、

これは後世の我が国でのこと、

中国では西が最高の地位を意味していたのだ。

だから<劉邦>は臣下の座る席に座らされた。

それも暗く寒々とした北を正面に見る最低の席、だったのである。

この極端な差別が<項羽>の四面楚歌=悲惨な最期を招いた。

古代の中国人はこんなに「方角に強い差別意識をもっていた」。

これが中国本来の<方位信仰>なのである。

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2011年3月11日金曜日

この大量の一致は、偶然か?コジ付けだろうか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:29頁

以上のように検討すると、偶然とかコジ付けではなく、

それが史実だと立証できる整った徹底した結論群が見つかる。

だからそれを偶然だとかコジ付けだとか非難する者は、

どこがコジ付けか、なぜ偶然なのか、

一つ一つ念入りに立証する義務がある。

「偶然」とは文字通りごく希に

「偶ま(たまた)発生する他人のソラ似現象」をいう。

だから以上のように一連の一致が、徹底的に大量に、連続して検出できるものは、

「ソラ似」とは正反対の「本物」なのであって「必然」なのである。

それを偶然と呼ぶ者は言葉も正しく使えない無教養を、

自分で公表する連中だから、

いくら教えても理解できる相手ではない。

「コジ付け」とは、

むりやりに「故事来歴」をネツ造してくつつける行為をいう。

例えば医学者がサーズのような新らしい病気を発見して、

その病菌を無関係な病菌中に分類し報告したとしても、

それは「故事つけ」とはいわない。

不注意とか研究不足という。

仮に、何かを観察し考察して、

得られた結論を比較し分類整理する際に、

間違った解釈やムリな分類をしたとしても、

それは「故事つけ」とは絶対に言わない。

そうしてそれを批判するのなら、

相手を上回る研究をし優れた結果を確保した上で、

徹底的に比較して相手のミスを立証する必要がある。

史学の研究も同じで、

より高い成果を立証しなくては何の意味もない。

『参考』

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2011年3月10日木曜日

眼に見るような「倭国大乱」と「卑弥呼共立」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:26頁

これまで卑弥呼は、

普通の女の子が、まるでシンデレラのように、

物好きな小国王たちに「共立」されて

「倭国の女王」になったのだとされてきた。

ひどいのは黒岩重吾氏のように

「邪馬台国の女王」に共立されたと思い込んだ人もいた。

多くの人が邪馬台国だと錯覚した

その韓は、九州北部の伊都国から南へ水行10日陸行1カ月の、

所在も知れない小国だから、そう思われても仕方がないというのではない。

彼の空想はさらに飛躍矛盾して

「8世紀なみの大和朝廷」の女帝として選ばれたというのだから、

フィクション作家の創造力は恐ろしい。

しかし現実の卑弥呼は、作家が

「共立」を誤解したような甘ったれた存在ではなかった。

それは夫を討たれて寡婦になった神功皇后が、

ジャンヌダルクのように先頭に立って、

戦い取った、偉大な戦果だったのである。

それは新羅が鹿児島の開聞(シラキキ)から、

熊本の不知火(シラヌヒ)、

福岡の白日(シラジッ)と大移動した後、

朝鮮半島にまで追い上げた五彩圏統一の戦いだったのであり、

それを可能にしたのは彼女が、

前漢代以前から朝鮮半島の最北端を越えて、

邑婁・夫余とともにギリシャ系政権を確立していた高句麗王家出身で、

現実に戦った実質的な戦闘員が、

沖縄から高句麗まで支配した大族・武内一族だったからである。

卑弥呼共立時の倭国大乱は、

このように、その規模まで明瞭に解読できるのである。

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2011年3月9日水曜日

正確な史実の記録「三韓征伐」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:27頁

この「帯=帯方郡」が、

皇后=卑弥呼にはついていて、夫の仲哀天皇にはない。

このことは半島が支配下に入った時期が、

ソナカの死後だったことを正確に記録していることも絶対に見逃してはいけない。

神功皇后=下照姫=卑弥呼が

仲哀天皇=天稚彦=蘇那曷叱智の死後に「三韓征伐」を行ない、

支配下におさめたという記述は、史実の記録だったのである。

しかしここで、誤解のないようにして戴きたいのは、

私はそんな侵略行為を賞賛しようと言うのではない。

今の人倫の道からみれば、五彩圏の拡大は許されることではない。

それを美化しようという愚行が、我が国にいまだに、

はびこっているのは実に苦々しい限りである。

それがたとえ古代には高度の理想であったとしても、

現代には通用しない暴行であることを認識していないと、

愛する祖国を間違った破滅の道に投げ込むことに悪用されるからである。

たとえ数は僅かでも、

そうした恥ずべき前世紀の遺物が我が国にはまだ居る。

そんな連中がせっかくの祖先たちの功業を、

汚泥にまみれさせてしまうのを助けたのでは、

私たちは何のために史実の復元に辛苦しているのかわからない。

知性ある最高の人間の一人として、

この努力を正しく実らせる以外に、

私たちの生き甲斐はないと思うのだがいかがであろうか?。


『参考』

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2011年3月8日火曜日

驚くほど完全な!神功皇后の名乗り!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:26頁

これと同じ問題が、この名乗りには、もう一ヵ所ある。

それも同じ足と帯という当て字である。

気長「足」姫と息長「帯」姫の2通りの当て字には、

夫の天皇には欠けている余分な名乗りがついている。

それがこの足と帯という2字なのである。

これは何を意味するのか?。

単なる当て字の差が生んだ余計なものが、

くつついただけなのであろうか?。

『古事記』のつけた当て字・帯中日子天皇が、

故意にしろ過失にしろニセ物であることは確実だから、

皇后の場合も『日本書紀』を改悪して、

当て字だけ揃えて、

無意味な「足」を「帯」の字に統一して当て字したということなのだろうか?。

これまでの史学だと「多分、○○だろう…」というだけで、

この問題には結論は出ない。

しかし私たちは今、五彩圏について完全な史実を知った。

それは朝鮮半島が外国ではなく、

完全な国内だったことを、余すところなく立証し終わった。

その朝鮮半島は卑弥呼当時には何と呼ばれていたか?。

これは会員諸賢ならすぐお気づきのとおり「帯方」だったのである。

だから「帯」は間違いなく半島を表現する名乗りなのである。

これが解れば皇后の名乗りが何を意味するか全体が完全にわかる。

足・帯はタラシで「根」と同じで、

息はオキだから共に沖縄を指す、

中・長は、

その2つに挟まれた本国=九州を表現した名乗りだったのだ。

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2011年3月7日月曜日

『記・紀』双方とも欠陥をもつ当て字

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:25頁

こうして卑弥呼当時から7世紀の斉明天皇までの、

百済倭国五彩圏の実在は徹底的に史実だったことが確認できて、

どんなにしても疑えなくなった。

すると仲哀天皇と神功皇后との名乗りを

再検討する必要が生まれてくるのである。

その名乗りは、

『日本書紀』  足仲彦天皇      気長足姫

『古事記』   帯中日子天皇     息長滞日売命

これまでに私達は天皇の足仲は「ソナカ」に対する当て字で、

夫婦が同じ名乗りをもつのは当然だから、

皇后の息長もまた「ソナカ」に対する当て字だと確認し、

そのお陰で卑弥呼が仏教女王だった事実に至るまで、

大量の史実を発見することかできたのだった。

だとすれば、ソナカとは絶対に読めない

『古事記』の「帯中日子」天皇は完全に間違った当て字であって、

『日本書紀』の足仲彦をタラシナカツヒコと、誤読したために、

当て字に「帯」を使った単純な誤りか、

史実を隠そうとする小細工だとみるはかない。

この名乗りについては『日本書紀』の方が史実を伝えていることは動かない。

ところが皇后の方は『古事記』の息長は正しいが、

『日本書紀』の気長は全然意味をなさない。

天皇の場合と逆転して『古事記』の方が正しい。

駄目さ加減は勝負なしである。

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2011年3月6日日曜日

「山」「本」の真意と、進化の極の新たな疑問!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:24頁

「山本家」というのは

大本山(仏教の)を意味する「山」の「本家」である。

これは他の岡本家などでも確認できた我が国の姓氏の原則である。

だから大仙陵という「山」を守る位置に実在している。

山と本が何を意味するかは、

堺でこそ明確に証明されるのである。

そこは百舌鳥耳原で、その語源は百済(モズミ)だった。

百済(ポセイ)はポセイドンで海の神。

原は高天が原以来、政府の所在地だった。


舳松村は倭王・済=和泉王の「百済国」の首府の遺跡だったのである。

するとそこに世界最大の陵墓、大仙陵が築造されたのはなぜか?。


それこそ悪者に仕立てられている

済=住吉仲皇子(紀)・墨江中王(記)の都の跡を

抹殺するためではなかったのか?

といった最も進んだ疑問が芽生える。

言語復原史学は無限に面白い学問である。

こうしたことは、現在の変化した地名では解らない。

地域に密着したご研究がいかに必要かを痛感する。

山本先生のご論文は致し方なく1ページに集約させて戴いたが、

有り余る位に「地域史研究」の素晴らしさ、俸大さを痛感させてくれる。

超集約型の本講は、毎号掲載するわけにいかないが、

多数のご教示を戴いて活用させて戴いており、

諸先生方にはここで改めて厚く御礼申し上げると共に、

他の皆様にも有意義な御生涯を記録する独自のご研究を、

心からお勧めしたいと、常々思っていることを申し添えておく。

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2011年3月5日土曜日

現代まで続く、堺市の「生きたギリシャ系海軍史」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:23頁

大阪府の堺市が種子島の坂井からの移住者の町だったことは、

はるか後世に種子島銃工業が盛んだったことでも明らかだが、

同市支部長の最古参正会員・山本健氏は地域史のご研究が深い。

先生は

文久3年(1864年=蛤御門の変の年)に描かれた地図に、

広大な「山本新田」が載っている所縁(ゆかり)あるご出身だが、

当時の村名は舳(への)松村で、

松の名がついているだけでなく、

舳(へ)という船の部分の名まで村名になっていた。

この舳松という地名の由来は、

『堺市史』の「伝説の堺」第1節に

「神功皇后が朝鮮からお帰りになって、 

石津の汐穴の松原に船をつけたとき、

船を繋がれた場所を舳松、

ご乗船九艘が停泊したところを九艘小路と呼び、

宿院のあたりまで続いていた」とあるから、

その船は可なりの大船だったことがわかる。

「現在の小林寺小学校の北にある鎮守の森は

九本松大明神という」というのも

ギリシャ以来の信仰の名残とみると意義が深いが、

それ以上に感銘的なのは大正14年に舳松村は堺市と合併し、

昭和4年に耳原町その他を分立、

8年には御陵通などを、
10年には松原町などを分立したので舳松村は消滅した。

その後、

耳原町も昭和32年に、大仙中町、大仙西町、協和町などに分割された結果、

耳原町も34年に消滅した。

これでおわかりのように舳松村こそ、あの百舌鳥耳原であり、

大仙陵=仁徳陵や、履中、反正両天皇陵のある地域だったのである。

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2011年3月4日金曜日

ギリシャ系海人族はどうなったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:22頁

しかし天智天皇は間もなく死に、

天武天皇の逆クーデターで天智系政権は潰れた。

国名は体面上そのまま「日本」を使い続けたが、

唐へ行った日本人たちは、

内乱続きで弱体化した祖国の真相をありのまま話す気にはなれなかった。

そこで改名の由来を訊ねられてもブスッとして答えなかった。

それを唐人は

「日本人は多く矜大(きょうだい=偉そうにしていて)、

真実味のある応対をしない」と

誤解して非難しているが、

今の私たちには、その実情が双方とも、

その深層心理までありありと手に取るようにわかる。

だが天武天皇に弘文天皇が殺されて、天智系政権が崩壊すると、

取り残された半島新羅は当然、天武政権と絶縁した。

これによって朝鮮半島は別の独立国になったから、

高句麓を黒、

新羅を白、

近畿を青、

鹿児島以南を赤としていた

「五彩圏国家」は完全に崩壊し去ったのである。

その結果、

海軍も統制力のない政府の管轄を離れて、

自活する民間水軍になり、

良く言えば海人族、悪く言えば海賊の、○〇水軍と

呼ばれるものになってしまった。

これが今の主題

「本土に移住したギリシャ系海人族ははどうなったか?」へのお答なのである。

その人々は得意の造船術と航海術とで、

次第に居住圏を拡大して全国的なギリシャ人圏を作り上げた。

それが隼人族と呼ばれたことは、

最も権威のある出身地証明書なのである。

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2011年3月3日木曜日

天智天皇は半島新羅人だったのか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:21頁

全ては粛慎でわかる。

この文字はチュクチ人に対する当て字である。

沖縄語のチュクチは南九州語ではキクチになる。

すると菊池・鞠智(きくち)と書かれた古代地名が、

九州の中央部にあることに気付く。

いま熊本県には菊池郡と菊池市があり、

鹿本郡菊鹿町米原に鞠智城址がある。

また沖縄語の語尾のチは本土語でシで、

チュクチはチュクシ、これは間違いなく筑紫でもある。

天智天皇は斉明天皇を筑紫に連れて行き、

女帝はその朝倉郡で死んだ。

天命開別は沖縄語では

天はチヌで本土語のキン=金、開きは古語ハラキで「春秋(ハラキ)」と

当て字できる。

すると新羅王・金春秋は完全に天智天皇であり、筑紫の白日は、

新羅を沖縄訛りでシラジと読んだものに助詞の津をつけた「シラジ津」への

当て字だったことがわかる。

だから彼の

「粛慎国討伐」は九州の白日国占領だったのであり、

筑紫が新羅だった証拠なのだ。

では彼は半島新羅人だったのか?。

それは彼が倭国を「日本」と改名したことで否定されている。

当時を記録した

『旧・唐書』が記録している初唐までの小国・日本は、

鹿児島県にしかない西と南が大海だという特徴をもつ

鹿児島県と熊本県の一部との国だった。

その国が北征して福岡をとり、半島新羅をとったのである。

彼が半島新羅の王だったのなら

新政権は日本などと改名するはずがない。

我が国は今も新羅という国名だったはずである。

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2011年3月2日水曜日

比羅夫が打った蝦夷は天智天皇が討った蘇我蝦夷(えみし)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:20頁

しかし、同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる。

先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、

粛慎を討ったとあるとお話しした。

だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、

なぜ?それが一言も記録されていないのか?。

いくら記録が混乱したといっても、

それは記録の持ち主が、

それぞれ使った当て字が違うだけで、

その事跡は同じように書かれていたはずだから、

それまで変わってしまうことはない。

変わるのは当て字のちがう名前くらいのものである。

そして実際に検討してみると、

事実、全てその通りなのだ。

いやその名の1つである蝦夷に至っては、

その文字さえも同じなのである。

天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、彼の最も有名な行為、

クーデターを敢行して蘇我を倒したと記録されている。

もうおわかりのように、

その相手は蘇我「蝦夷」なのである。

すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、

顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や

淳代(ヌシロ)はどうみても、

東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。

ところが同じ年に粛慎も討つ。

粛慎といえば私たちの常識ではシベリアの住民である。

その一部が、

そのときの阿部比羅夫の名乗りである

「越国守」の名から北陸あたりが、

その粛慎国だったのだとされてきた。

だがこれも怪しくなる。

ではそれらの記事はすべて、

『日本書紀』がデツチ上げた大ウソだったのであろうか?。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史学講座『創世』
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2011年3月1日火曜日

なぜ?3人のヒラッ(比羅夫(ヒラフ)・開(ヒラッ)く)は同一人か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:19頁

この2人に見える比羅夫は実は同一人なのである。

なぜなら阿曇=アヅミはア津ミに対する当て字であり、

阿部は沖縄語ではアビでビは美を当て字するとミ。

ア津ミから助詞の津をとったアミと同じになるからである。

これは多くの記録を素材にした

『記・紀』編集者が、

文字が違うから別人だと錯覚して、

2重に記載したための事故だとすぐわかる。

しかしそれが同一人だという理由はまだ他にある。

これだけで断定するのは間違いなのである。

もう1つの理由は、

沖縄語では「天」もまたアミと発音することである。

この2人の比羅夫と同時存在である

天智天皇は、「天命開別」という名乗りをもっている。

これは大隅語では

「アミの命、開(ヒラ)ッビチ(日木(ビチ)=ヒコ=日子)」と読む。

このうちの敬称の「命と日子」を除くと、後に正味の名が残るが、

それは大隅語では「アミ・ヒラッ」になる。

2人に見える比羅夫もまた大隅語で「アミ・ヒラッ」である。

3つとも全く同じ名なのだ。

しかしこれでも同一人だというのは、まだ早い。

それは3人の別人が、

順番に一つの名乗りを継承した可能性があるからである。

しかしこの3人は単に同時存在だというだけでなく、

同時に同じことをしている。

この3人のヒラッは白村江戦争で共に百済を助けて戦っているのである。

同じ名乗りをもつ他人が同時に3人もいて、

同じことをすることは絶対にない。

『参考』

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