2013年7月31日水曜日

角の崇拝(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:96頁

 第二章 角の崇拝(3)

  シュメル語で羊飼いをシパ sipa と呼ぶ。

 この言葉は

 ヘブライ語で seber 、

 ドイツ語で Schäfer 、

 英語で sheperd となり、
 
 西アジアからヨーロッパにかけて広く使われている呼称である。

 羊は人間によって最初に家畜化された動物ともいう。

 紀元前九千年頃に羊は家畜化された。

 その痕跡を残すのが、先に触れたが、

 ニネヴェの南でチグリス川へ東方から合流する大ザブ川の上流、

 シャニダール川との合流点に近い

 ザウィ・チェミ Zawi Chemi 遺跡である。

 ここの集落跡の最深層から、

 つまり、

 この集落の頭初の遺物の堆積から大量の骨類が出土したが、

 その大部分は赤鹿のものであった。

 野生の羊の骨も混じっていたが家畜化した動物の骨はまだ無かった。

 しかし、

 その上層の遺物から家畜された羊の骨が発見されたのである。

 山羊はまだ野生であった。

 この集落ではまた作物の栽培のための用具が発見されている。

 しかし、突然に表われたという様子で、

 この集落の人々が耕作を思いついたかどうかは解らないし、

 農耕集落の形とはえない段階にある。

 にもかかわらず、マックス・マロワンは、

 羊の家畜化と野菜の栽培の発生は

 大きな経済的革命を予告するものだと評している。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 シュメル語

 ニネヴェ

 ザブ川

 ザウィ・チェミ遺跡

 山羊

 マックス・マローワン

角の崇拝(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:95頁

 第二章 角の崇拝(2)

 メソポタミアを取り囲む山岳地帯で

 現在も飼われている雄羊の角は、

 牛や鹿のように起立することなく、

 頭の側面に従って下がって生える。

 しかも巻くこともなく先の方で

 顔面の方へカーブを取るのが大半である。

 よって、

 釘状の遺物は「雄羊の角」を象徴したものと考える。

 エリドゥの神殿への供犠は絶対的に魚であった。

 しかし、魚には角がない。

 人々はかって信仰の依代として崇めてきた動物のシンボルであり、

 崇拝の依代の代表であった角を

 粘土製の角で代用したと推測できる。

 海岸地帯でしかも湿地帯であった地域は、

 灌漑によって農地化し小麦などの穀物は生産できても、

 多量の牧草を要する家畜の飼育は難しく、

 頻繁に供犠するほど獲保できなかったのであろう。

 彼等の信仰には角が重要であったのだ。

 彼等の宗教的祖地は

 牧畜が行われていた地域にあったと考えられよう。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 雄羊の角

 依代

角の崇拝(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:94頁

 第二章 角の崇拝(1)

  エリドゥ市のウバイド期の神殿建物の中から

 奇妙に曲がった釘状のものが発見された。

 先のラッパ状の飲み口のついた「魚湯わかし器」と同じ時期である。

 この遺物は頭の部分が先の方で曲げられ、先端が尖っている。

 粘土製で焼成されているが、塗装されたものと素焼きのものとがある。

 発掘時の調査では壁に打ちつけられた様子は全くないので、

 その目的があったことは否定されている。

 その多くが魚の骨などと共に神殿裏の土中に埋められていたので、

 やはり信仰に係わる役目を果たしたと専門家は推測している。

 彼等はこれを「角」と呼んでいるが、多分それが正しいと思われる。

 シュメル語は角のことをシ ši というが、

 基になっている絵文字によく似ている。

 この形象は羊の角を表すとみられる。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ウバイド期の神殿建物

2013年7月30日火曜日

メソポタミアの開明期と彩文土器(9)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:93頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(9)

  メソポタミア北方に生まれたサマッラ・ハラフ両文化の陶器に

 表された彩色紋様が南メソポタミアへ伝播し、

 影響したことは確実である。

 多様な紋様のうち幾何学意匠は

 紀元前五千年期初めのウバイド期初期から

 エリドゥ、ウルまたそん近郊のテル・ウェイリ遺跡などに表れ、

 紀元前三千年頃まで、専門家がいうウルクまで続いた。

 そしてこの間南部の陶器製作者は北部から影響され続けたのである。

 エリドゥ市の神殿跡から発見されたラッパ状の長い飲み口を付けた

 フィツシュ・ケトル(魚湯わかし器)と称される容器の同類が

 ニネヴェの北に位置するテペ・ガウラの遺跡からも

 発見されていることからも解る。

 テペ・ガウラのものの方が製作時期が早い。

 メロワンは、

 この比較をもって南部メソポタミアの陶器が

 北方から影響を受けたとことの証拠としている。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 サマッラ・ハラフ両文化の陶器

 彩色紋様

 南メソポタミア

 紀元前五千年期

 ウバイド期初期

 エリドゥ、ウル

 テル・ウェイリ遺跡

 ウルク

 テペ・ガウラ遺跡

メソポタミアの開明期と彩文土器(8)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:92頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(8)

  さて、サマッラ文化・ハラフ文化の彩文土器に表現された

 卍字紋意匠、正面向きの牛頭意匠は製作者たちの

 共通な想念によっていると考えられる。

 卍紋はサンスクリット語で svastika スワスティカという。

 スワは吉兆の意、

 スティカは英語でいうステッカーで形象のことである。

 日本で仏教寺院のマークと決め付けている卍字紋は元より、

 多くの神社が神紋としている巴紋もこの範疇に入ることは明らかである。

 この卍紋が使われた

 サマッラ・ハラフの両文化の分布するセンターが

 後に紀元前三千年期以降になってからではあるが

 カルトゥ、スバル人の国と呼ばれたことを想起していただけると思う。

 卍紋とスバル人とを結びつけることはできるだろうか。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 マッラ文化・ハラフ文化の彩文土器

 仏教寺院のマーク

 巴紋

 卍字紋

 多くの神社が神紋としている巴紋

 サマッラ・ハラフの両文化

 紀元前三千年期

 スバル人

メソポタミアの開明期と彩文土器(7)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:91頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(7)

  ハラフ期初期の彩文土器になるが、

 イラクの考古学者イスマイル・ビジャラ(ISMAIL HIJARA)

 が1976年に報告した:

 IRAQ VOLUME XLII PART2 AUTUMN 1980 ARPACHIYAH 1976

  by ISMAIL HIJARA AND OTHERS

 アルパチヤ遺跡出土の碗形土器に描かれた彩文土器意匠には

 驚きがある。

 日本の神社に酷似した建物意匠が描かれているからである。

 アルパチヤはニネヴェのすぐ東に隣接する遺跡である。

 建物意匠ばかりでなく、

 この碗形土器には宗教的物語が語られていて興味深い。

 図の第一段には牛頭の正面、マルタ十字、蛇とマルタ十字、

 さらに二人の人間とその身長より大きい壺、
 
 第二段には半面の牛頭と幕と思われるものに二人の髪の長い女性。

 第三段にには二頭の牛と矛を背に負い弓を手に持った狩人、

 幕と思われる布、

 そして第四段円の中には斜めの階段つき高床式建物を描いている。

 この建物の構造は日本の神社の本殿そのものである。

 メソポタミア北部のしかも紀元前六千年期の神殿が

 日本の神殿とどう結びつくのだろうか。

 また、この碗形土器を紹介する

 増田精一は

 「西アジアでは、

  布幕はその背後に聖なるものの存在を象徴する時に用いられる」

 とコメントしているが、

 日本の神殿においても垂幕はつきものである。

 この碗に描かれた布幕の内に坐す神は

 どのような存在なのだろうか。

 今のところその神名は不明である。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ARPACHIYAH 1976 ISMAIL HIJARA AND OTHERS

 ハラフ期初期の彩文土器

 イラク考古学者

 イラクの考古学者

 アルパチヤ遺跡出土の碗形土器

 日本の神社

 アルパチヤ

 ニネヴェ

 古代建物意匠

 碗形土器

 牛頭の正面

 マルタ十字

 斜めの階段つき高床式建物

 日本の神社の本殿

 メソポタミア北部

 増田精一

 Arpachiyah知らせる

2013年7月29日月曜日

メソポタミアの開明期と彩文土器(6)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:90頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(6)

  西アジアの土器は彩文土器が多いことに特徴があり、

 メソポタミアではハッスーナ期から刻線文などの幾何学紋が

 頻繁に使われた。

 サマッラ文化以降には

 動物や植物の意匠をほどこしたものが増大したほか、

 物語を意匠として展開させた平皿などもみられるようになった。

 サマッラ土器に卍字紋がたくさん用いられている点は見逃せない。

 卍字紋とは、マルタ十字紋様、鉤十字紋を幾何学図形・動物意匠、

 時には植物とみられる意匠で紋様化したもので、

 宗教的表現と判断できるものもある。

 古代ギリシャでいうブクラニオン、

 牡牛の頭を正面からみた形も角を長く強調して描かれている。

 動物の中ににはレイヨウが抽象化された形で多く描かれている。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 彩文土器

 メソポタミア

 ハッスーナ期

 サマッラ文化

 卍字紋

 マルタ十字紋

 鉤十字紋

 ブクラニオン

 牡牛の頭

 レイヨウ

メソポタミアの開明期と彩文土器(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:89頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(5)

  ハラフ文化の後にやってきたのがウバイド文化である。

 その分布範囲にはエリドゥのあるペルシャ湾沿岸から

 チョガ・マミの辺りまで両大河の周辺に限られた狭い地域である。

 その最古の遺跡は紀元前五千九百年頃までに遡及するとされる。

 このエリドゥの最古の遺跡から始まる時期を

 ポラダの編年表ではエリドゥ期と呼んでいた。

 この文化の象徴は

 サマッラ文化との類似がみられるという点である。

  ロンドン大学のジェイムス・メラート教授は、

 サマッラ文化の顕著な広がりが

 南メソポタミアやフジスタンを中心としてみられ、

 エリドゥなどの遺跡がサマッラ中期・後期文化の大きな影響を

 受けていると指摘した。

 さらに北メソポタミアでは天水農耕が可能であるが、

 南メソポタミアは灌漑をしないと農耕が不可能なのであり、

 この灌漑農耕によって

 シュメルやアッカドの文明が可能となったといえようとも述べている。

 灌漑技術の発明は人々の生活に革命的変化をもたらしたのである。

 その最高の技術は単に人から人へ、地方から地方へ

 伝播されたというのではなく、

 技術者達が賢者として移動していったと十分考えられる。

 サマッラ文化のエリドゥへの影響について、

 マックス・E.L.マロワンも「ケンブリッジ古代史」の中で

 「エリドゥの陶器が持つ重大性は疑いもなく

  かなり北方のサマッラと知られる

  彩文土器のグループから影響を受けていることである」

 と述べている。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ハラフ文化

 ウバイド文化

 エリドゥ

 ペルシャ湾沿岸

 チョガ・マミ

 紀元前五千九百年頃

 ポラダの編年表

 サマッラ文化

 シュメル

 アッカド

 マックス・E.L.マロワン

 ケンブリッジ古代史

 サマッラ文化

 ジェイムス・メラート教授

 南メソポタミア

 フジスタン

 彩文土器

メソポタミアの開明期と彩文土器(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:88頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器(4)

  紀元前六千年頃になると、

 ハッスーナ文化はハラフ文化に取って替わられる。

 この文化はサマッラ文化よりさらに広い地帯に影響をもたらした。

 天水農耕の南限に沿って

 西方はユーフラテス川の最西を越え、現在のアレッポ辺りまで、

 南東はザグロス山脈まで達した。

 この期には土器製作に語術的向上がみられ、

 二室構造の窯で焼成した彩文土器は見事であった。

 粘土の質も粒子がきめ細かく、

 色彩はサーモン・ピンクが多かった。

 ただ、

 この広い分布圏内には土器形成の異なりが

 地域によって表れることから判断して

 同一民族がその担い手であったとはいえないという

 見解をマイケル・ローフは述べている。

 ハラフの名称は

 ハブール川とその西方ユーフラテス川との間にある

 ウルファ市に近い遺跡名テル・ハラフに因む。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 紀元前六千年頃

 ハッスーナ文化

 ハラフ文化

 サマッラ文化

 ユーフラテス川

 アレッポ

 ザグロス山脈

 サーモン・ピンク

 マイケル・ローフ

2013年7月28日日曜日

メソポタミアの開明期と彩文土器(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:87頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器 (3)

 この名称はニネヴェの南方チグリス川と大ザブ川の合流点の

 わずか西方に位置するハッスーナに因む。
 
 紀元前七千年期の終わり頃になると、

 このハッスーナ文化の中から新しい形式の土器が

 作られるようになる。

 焼成精度は向上し、

 チョコレート色の彩文が見事に描かれたのが象徴である。

 この文化の範囲は大きく広がり、

 西方はハブール川近くバグーズまで、

 東方はイランのザグロス山脈、

 そして南方はチグリス川下流のサマッラ市、

 さらにそこから東南の遺跡チョガ・マミまで至った。

 遺跡名サマッラがこの土器文化の呼称とされた。

 サマッラ期の大きな事件は、人々がかなりの距離の運河を掘り、

 それを維持する灌漑技術を習得したことである。

 サマッラ文化の南端に位置する

 チョガ・マミ遺跡で運河跡が見つかっている。

 この灌漑用水路発見されている運河の最古のものである。

 遺物の中には大麦などに天水農耕期とは違う

 新しい改良品種の作物もみられ、

 天然の品種より実の太りがよくなって

 収穫量の増加を来しただろうことの証拠とみられる。

 灌漑技術は天水農耕地帯に増収穫が、

 雨の少ない地帯でも農耕できる農地開墾が可能となった。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ニネヴェ

 紀元前七千年期

 ハッスーナ文化

 ハブール川

 ザグロス山脈

 サマッラ市

 チョガ・マミ遺跡

 サマッラ文化

メソポタミアの開明期と彩文土器(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:86頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器 (2)

  マイケル・ローフの資料によると、

 北方の山地一帯には野生の大麦小麦が分布していた。

 また羊やヤギ、鹿などの生育に適した土地でもあった。

 そのような環境の中、紀元前七千年期には

 天水農耕を利用した集落が形成され始め、

 土器が作られるようになった。

 その土器新石器時代初期を原ハッスーナ文化という。

 そして紀元前七千年期半ばになると土器製作に発達がみられ、

 単調なものから、

 彩文刻文を持つ洗練された土器が作られるようになった。

 これを原ハッスーナ文化の発展したものとの判断から

 ハッスーナ文化という。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 マイケル・ローフ

 土器新石器時代初期

 原ハッスーナ文化

 紀元前七千年期半ば

 土器製作

 彩文刻文

 ハッスーナ文化

メソポタミアの開明期と彩文土器(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:85頁

 第二章 メソポタミアの開明期と彩文土器 (1)

  エリドゥに神殿を建てた人々とはどのような人々であったか。

 エリドゥ市の成立の過程から、

 人々がここに来てから神殿を建てる信仰心を獲得したと

 考えるのは難しい。

 やはり、移住してきた第一の先住民が、

 彼等の生活思想として持ち込んで来たと考えるのが妥当であろう。

 エリドゥ市が成立したウバイド期のうちに同市と

 共通した文化風土を持った遺跡文化を他の地に求めざるを得ない。

  メソポタミアの開明の舞台となったのは

 ペルシャ湾近くの両大河の河口地域ではない。

 両河の源であり、

 この平野を取り巻く山脈と平野との境界地帯であった。

 レバノン山脈、トルコのタウルス(トロス)山脈から

 アナトリアの山岳地帯、イラク北端のシンジャール、

 ハルルの両山脈、そしてイランのザクロス山脈へと山塊は連なる。

 これらの山々に育まれて人々は文明への胎動を始め、

 揺籃期を送ったのである。

 チグリス川の支流、大ザブ川のそのまた支流シャニダール川に

 近い新石器時代の集落で羊の家畜化を始めたのは

 紀元前九千年期の初期であった。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 エリドゥ

 ウバイド期

 メソポタミアの開明

 ペルシャ湾

 レバノン山脈

 タウルス(トロス)山脈

 チグリス川

 シンジャール山脈

 ザクロス山脈

 大ザブ川

 シャニダール川

 新石器時代

 

2013年7月27日土曜日

エリドゥ(6)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:83頁

 第二章 エリドゥ (6)

 「シュメル」の呼称はアッカド時代になって表れるが、

 本来土地の呼称で彼等自身はキ・エン・ギ Ki.en.gi と呼んだ。

 それは葦の土地(葦原)の意であった。

 シュメル人は

 第一の移住者たちの文化を拒否したわけではなく、

 その伝統を引き継いだ。

 そして革新・発明も行った。

 その例が文字の発明であり、神話の集大成であった。

 第一の先住民が移動してきた

 紀元前五千年紀のウバイド期から

 文書が書かれた粘土板ができるまで二千年の年月が経っている。

 文書の遺留物のうち、

 我々にみられるようになったのは

 ウルク市から発見された

 絵文字の粘土板がその嗃矢(最初)である。

 シュメル語での判読はされているものの、

 その当時これらの文書を使った人々が何と読んだかは

 今のところ専門家の努力にもかかわらず不明である。

 しかし、

 これらの絵文字は楔形文字の原型と考えられている。

 ウルク市は現在のワルカ市(ワルカ遺跡)

 シュメル時代はウヌ unu と呼ばれ、

 旧約聖書にはエレクと記述されている町である。

 エリドゥと同じく市名の基になっている意味は

 諸説考えられているが不確定である。

 私見では、絵文字が発見された土地であることを

 第一の理由として

 「言語」ないし「書き言葉」

 つまり文字を表しているのがウヌの原語である。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 キ・エン・ギ

 楔形文字

 

エリドゥ(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:83頁

 第二章 エリドゥ (5)

  エリドゥを建てた人々がどのような人であったか

 実際のところ明らかでないが、

 この地方への第一の移住民であったことは確かである。

 近郊のウル市も同時期かそう遅からず創建されたところであるが、

 後世には建造されたが、頭初には神殿の造築がなかったので、

 両市が連携していたのではないかとの推測がなされている。

  その後紀元前三千年頃、伝承ではあるが、

 海の方からか東南のペルシャ高原からか、

 シュメル人といわれる頭の黒い人々がやって来る。

 彼等もその素性はよく解っていない。

 現在彼等と言語の性格を同じくする言語は他に捜し得ていないので

 膠着語の仲間に入っている。

 シュメル人は、

 前三千年紀のうちに西北方から圧し寄せてきた

 アッカド人を始めとする

 セム系民族に吸収されるか、

 あるいは外地へ移動したのか、

 前二千年紀が始まる前とは固有集団としての動きを

 この地域から全く消してしまった。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

エリドゥ(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:82頁

 第二章 エリドゥ (4)

 また、神殿は常につき堅められた土台の上に建てられている。

 この土台の高度化が後に聖塔(ジックラト)へと

 発展したのだとの理解がされている。

 祭壇と供物台が対になっているのも

 その後のメソポタミアにおける神殿構成上の基本的要素となっている。

 大きな建物が造築されるようになると、

 補強のため外側に扶壁がつけられるようになるのも特徴である。

 供物台も、単に供物を置いただけでなく、

 台上で犠牲を焼いた痕跡の確認された遺構もある。

 建物の外には炉跡が最古の神殿の時代から掘られていた。

 その形は建物の壁と同様日乾煉瓦で固めた円形であった。

  現在、イラクのどこにもエリドゥの都市名はない。

 古代の名を現在までそのまま受け継いでいる

 ウル市の南にあるテル・アブ・シャハラインが遺跡地である。

 古代においてはペルシャ湾この辺まで入り込み、

 エリドゥはその海岸近くに建てられたのである。

 供物だったものの中に魚の骨が多くみられるのもそのためである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ジックラト

 ウル

 アル・シャハレーン

エリドゥ(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:81頁

 第二章 エリドゥ (3)

  エリドゥの神殿はウル・ナンム(地名)で、
 
 その遺構が発掘された。

 ウバイド期から十八回の再建が行われ、

 最古の神殿は建物遺物があるだけで

 本当に神殿かどうか疑わしいが、

 その上に建てられた第二の神殿は確かなものである。

 薄い壁で造られた二・八メートル四方の小さな

 礼拝祠堂という方が似つかわしい。

 それも一部の壁が欠落したり、

 内部の配置など建前が不完全で

 実際あった様子がみられない。

 第三の神殿になって、

 第二の神殿より若干敷地面積が大きくなり、

 建物の見取が判明してくる。

 部屋の中に祭壇と供物台が一つずつ据えられ、

 時代の経過と共に建物規模は拡大され、

 祭壇の位置が奥の壁に着けられていることに変わりがないものの、

 祭壇と供物台との間は広げられ、

 この中央の広間で礼拝に係わる祭事が行われたことを推測させる。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

エリドゥ(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:80頁

 第二章 エリドゥ (2)

  エリドゥの地は何もない処女地であり、

 ここに初めて王権を保持した人々がやってきて

 家々を建て集落を形成し都市を築いたというのである。

 先に述べたとおり、

 エリドゥは本来シュメル語ではない。

 「降臨の地」という解釈もできよう。

 「リドゥの神殿」とも解釈できる。

 「エ É 」がシュメル語で多用される家ないし神殿を、

 日本語でいうところの「イエ」で、

 リドゥ ridu をリタ rta と解釈できる。

 紀元前二千前紀に北メソポタミアで活躍し、

 専門家によってはスバル人の別名として扱われている

 フルリ人が信奉する神名の一つである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 フルリ人

 フルリ人

エリドゥ(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:79頁

 第二章 エリドゥ (1)

  紀元前五千年紀に神殿が

 エリドゥに建てられ始めたという事実は重要である。

  シュメルの楔形文字文書の中に『王名表』がある。

 この地を支配してきた原初からの歴代王朝の記録で、

 現存する最古の写本は前二千年紀初頭作成されたものである。

 この写本を紀元前四世紀になって

 バビロニア人でベロッソスという書記が

 転写した写本は

  "[nam]-lugal an-ta èd-dè-a-ba

   [eri]duki nam-lugal-la"

「王権が天より下ってきたのち、

  エリドゥ市が王権の(所在地)となった」

 から始まっている。

 マイケル・ローフによると

 エリドゥについて叙事詩が語る。


  葦は生えていなかった。

  木はできていなかった。

  家は建てられていなかった。

  都市はできていなかった。

  大地はすべて海であった。

  そして、エリドゥがつくられた。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 エリドゥ

 シュメル王名表

 ベロッソス

 マイケル・ローフ

 

 

2013年7月26日金曜日

バビロニアの新年祭(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:78頁

 第二章 バビロニアの新年祭 (4)

  ティアマトとは塩水の海の意であると紹介したが、

 シュメルの諸都市にとっては

 原初的な神々の母神フブルの別称でもあった。

 アッカドの人々の神であるマルドウク神が湿地

 つまりシュメル原初的母神を圧倒したというのは、

 シュメルの諸都市を

 治下に敷いたという事跡の象徴であったのだろうか。

 マルドウクの

 マル maru は息子の意、

 ドゥク dug は壺の意味である。

 メソポタミアでは壺を持った神像が多く造られた。

 神の壺から流れ出る水は塩からい潮水ではなく、

 淡水で甘い水である。

 人々に豊饒と安らぎをもたらす神の恵みである。

 マルドウク神はそのため

 アッカド語で エア Eá 、

 シュメル語のエンキ Enki 神の息子とされる。

 エンキ神は「地の神」の意であるが水神である。

 地を掘ると淡水が湧き出てくる

 井戸ないし泉の神というのが専門家の見解である。

 シュメルの万神殿には三大神がおり、

 「天空の神」アン An 、

 「大気の神」エンリル Enlil 、そして

 「水の神」であるエンキ神である。

 少々混沌とするが、シュメルの人々にとって

 原初的母神と述べたフブルは

 アン神の父祖神といわれるアンシャル神とともに

 もう一つ古い世代の神であったと考えられる。

 シュメル人がこの地にやって来て活躍したのは

 紀元前三千紀である。

 それ以前紀元前五千年紀に

 第一の先住民が移住してきてから二千年が経過した頃である。

 第一の先住民が集落を作り、

 神殿を建てた都市エリドゥの名称もシュメル語ではない。

 第一先住民の移動し定住した時期を

 専門家は一般にウバイド期と呼んでいる。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 フブル

 アン神

 エンリル神

 エンキ神

 アンシャル神

 エリドゥ

 シュメル人

 シュメル語

 ウバイド期

バビロニアの新年祭(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:77頁

 第二章 バビロニアの新年祭 (3)

  ここに引いた「エヌマ・エリシュ」の一部は

 紀元前三〇〇年頃の比較的新しい粘土板文書によるものである。

 この創世神話はけっして新しくはない。

 ジョン・グレイは

 「現存する最古の断片は前一千年紀のものであるが、

  その神話は言語や文体から判断して

  前二千年紀初頭の原本に遡り得ることは確実である」

 といっている。

 前二千年紀の初頭とはセム系民族のアッカドの人々が徐々に

 西北方から葦原である両大河の河口方面へ在り、

 先住の民族と摩擦を起こしていたが、

 前二三五〇年に

 サルゴン大王により遂にシュメルの諸都市を圧倒し、

 彼等の帝国を成立させ、

 アガデに彼等の都市を建設した頃である。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 サルゴン大王

 アガデ

バビロニアの新年祭(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:76頁

 第二章 バビロニアの新年祭 (2)

  マルドウクとティアマトの戦いの最終場面で、

 この一節が朗々と轟くと周囲の聴衆から

 「オウー」といった歓声が聞こえてきそうだ。

 ティアマトとは塩水を意味し、

 海を表すアッカド語である。

 ティアマトはここでは魔物として登場する。

 最後の一節はドゥルガーを圧倒した

 デーヴィー女神の勝ち誇った有様と全く同じく死体を投げ倒し、

 つまり伏せてその上に立ったという表現になっている。

 インドの「デーヴィー・マハートミヤ」の

 クライマックスと同じであることが確認できる。

 また、「エヌマ・エリシュ」神話では、

 マルドウク神がどのような理由によりバビロン市の王位を

 掌握することになったかの経緯を述べるのが主題であるが、

 デーヴィー女神が他の神々によって

 魔物マヒシャと戦う任務を担わされることになったと同様、

 マルドウク神も他の神々の集会によって

 魔物ティアマトと戦う任務を与えられることになったのである。

 「デーヴィー・マハートミヤ」では、

 その経緯の重要性を

 さほど重大なことと解釈しているようにみえないが、

 「エヌマ・エリシュ」におけるマルドウク神の場合は、

 神々の集会で推薦され魔物と戦い退治して

 勝利したことにより王位に就くという決定的な教訓が含まれており、

 バビロン市が

 どうしてマルドウク神を都市神としているかを

 教宣しているのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

2013年7月25日木曜日

バビロニアの新年祭(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:75頁

 第二章 バビロニアの新年祭 (1)

  新バビロニア時代(紀元前六二五年~五三九年)

 バビロン市で毎年行われた

 新年祭での神殿における祝宴の最中

 朗誦された市の守護神マルドウク神への賛歌を紹介する。

 バビロンの『創世神話』と呼ばれる

 『エヌマ・エリシュ』のクライマックスとなる部分である。

  〔マルドウクは〕後ろからついて来た「悪魔」を

  彼女の顔に吹きつけた。

  ティアマトが彼を飲み込もうとして、口を開いた時

  彼は「悪風」を送り込み、

  彼女が口を閉じられないようにした。

  凶暴な風は彼女の腹に突撃したので、

  彼女の体は膨張し、彼女の口は大きく開いた。

  彼が矢を放つと、それは彼女の腹を引き裂き、

  それは彼女の内臓を突き通し、その心臓を断ち割った。

  このようにして彼女を征服し、彼は彼女の生命を断った。

  彼は彼女の死体を投げ倒し、その上にたった。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 マルドゥク

 バビロンの『創世神話』

 エヌマ・エリシュ

 ティアマト

供儀の起源(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:74頁

 第二章 供儀の起源 (2)

  メソポタミアとは、「二つの川の中央」を

 意味するギリシャ語を地方名としたものである。

 古代メソポタミア文明は

 現在のイラクとシリア、トルコ、イランの地籍の一部を

 含んで発展拡大した文明である。

 イラク国では

 ペルシャ湾に近い地方をシュメル、

 その北をアッカド、

 その北方のバグダッドを中心とする地帯をバビロニア、

 そのまた北方シリア・トルコ・イランの国境に挟まれた

 モスールを中心とする地帯をアッシリアと呼んでいる。

 歴史的時代区分の呼称も

 この地方名の南からの序列で呼ばれてきたのである。

 シュメル前代は紀元前三千年代、

 アッカド時代は紀元前二三五〇年から

 バビロン王朝の時代は紀元前一八三〇年からとされている。

 一方北方では

 スバル人がシュメル前代より勢力を持っていたと考えられるが、

 紀元前二千年ころから

 アッカドの勢力とスバル人の一部が混合して

 古アッシリア、

 中期アッシリア、

 新アッシリアと

 三回にわたりメソポタミア中原に覇をとなえた。

 この間栄枯盛衰は激しいものがあったが、

 紀元前五三九年に新バビロニアが

 イランのスーサから興った

 ペルシャ帝国によって滅亡させられて、

 メソポタミアの古代文明の時代は終わりとなった。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 メソポタミア

 シュメル

 アッカド

 バビロニア

 モスール

 アッシリア

 シュメル前代

 アッカド時代

 バビロン王朝

 スバル人

 古アッシリア

 中期アッシリア

 新アッシリア

 スーサ

 スーサ

供儀の起源(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:73頁

 第二章 供儀の起源 (1)

  ドゥルガー女神の乗物は虎である。

 虎はサンスクリット語で bagh という。

 インドの西部ヴィンダヤ山脈の西方に

  Bagh と名付けられた町がある。

 古い石窟で知られた町である。

 虎を神格化した所がインドにはかなりある。

 しかし、ドゥルガー女神との関係は特に認められない。

  そして、

 イラクの首都バグダッド Baghdad 市を想起せざるを得ない。

 「虎の都」の意である。

 しかも、そこを流れる河がチグリス Tigris 川で、

 これはギリシャ語化された呼称、

 英語でいうところの Tiger 、つまり虎の名が付いているのである。

 どうしても興味を古代メソポタミアへ移さざるを得ない。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 バーグ洞窟

 バグダード

 チグリス Tigris 川

 古代メソポタミア

メソポタミアと牡牛


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:72頁

 第二章 メソポタミアと牡牛

  ドゥルガーというもう一つの尊称を得た

 デーヴィー女神に関する要件でさらに疑問が生じる。

 女神に刺し殺される悪魔は

 なぜ水牛ないし牡牛の姿なのかなどの疑問である。

 この疑問に対しても魔女ホーリーの原像の考察とも同様であるが、

 インドの資料だけを分析しても

 その本当のところは解ってこないだろうという見解を持つ。

 他の文明地域の資料の中に

 データ収集・分析するのが望ましいと判断する。

 デーヴィー女神が虎を乗物としたこと、

 三叉の矛で突き立てる相手が水牛ないし牡牛の姿であること、

 伏せて圧え倒して足踏みにし、

 その上に立つ行為などの根幹をなす主題に

 モデルがあったのではないかという考察をしたいのである。

 プロトタイプ化した伝承があり、それがインドにも移植され、

 独自の環境の中で徐々にいろいろな装飾が付けられて

 インドらしい物語に成り立ってきたのだろうという

 仮題が提起されるのである。
  
 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:71頁

 第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 (5)

  信濃のポンガルについて、

 『日本語以前』は

 江戸時代の学者・菅江真澄が天明四年(1784年)に

 信州を旅した日記『すわのうみ』に

 ひろった鳥追いの歌詞を紹介している。

   今日は誰の鳥追、

   太郎殿の鳥追か、

   太郎殿の鳥追か、

   己(おら)もちと追ってやろ、

   ホンガラ、ホ

 昭和三十二年に長野県塩尻市で

 採集された歌詞を上げておく。

   今日は誰の鳥追いじゃ、

   太郎次郎の鳥追いじゃ、

   おれもちっと追ってやれ、
   
   ホンガラ、ホーイのホーイ

  子供達は歌いながら集落内の道路を

 東西南北歩き回るのである。

 集落境で隣り集落の子供達とぶつかり合うと大変だ。

 追いやって来た災いの鳥たちがまた舞い戻ってしまう。

 そこでゆずり合うわけにいかないので

 喧嘩となるのは止むをえない。

 しばらく騒いでさっと別れる。

 そうすると驚いた鳥たちはどこかへ行ってしまう。

  思金(兼)神の解説で

 信濃へのサンスクリット語文化の流入を紹介したが、

 三九郎・どんど焼の原語も同様であったのである。
 
 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 すわのうみ

 八ヶ岳原人

 鳥追

 思金(兼)神

左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:70頁

 第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 (4)

  信濃の三九郎について

 昭和三十二年(1957年)頃

 採集した記録の中から若干取り上げておきたい。

 三九郎を組み上げるための竹あるいは松の木は

 三・五・七の奇数本でなければいけない。

 この木は先にある枝葉だけは残して

 林から切り出される。

 正月の七日各民家で外された角松や注連縄を

 子供達が集めて小屋風の組立建てる。

 七日から十五日までの七日間、

 この小屋の中は

 子供達の寒さ除けの遊び場となる。

 どんど焼きの当日は、昼中の十二時、

 人々が各戸で正月の七日の日に

 米粉を練って丸め柳の枝にさし、

 家内の神棚などに掲げられていた

 繭玉という餅を持って集まって来る。

 火の点けられた三九郎は角松の油脂で炎がよく上がる。

 火炎が落着くと

 人々は繭玉を焼いて食べるのが楽しみである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 どんど焼き

 神棚

 繭玉

 角松

2013年7月24日水曜日

左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:69頁

 第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 (3)

  南インドでは、マカラ・サンクランティの日

 ポンガル Pongal という収穫祭が行われる。

 その主旨内容はホーリー祭に似ている。

 インド亜大陸の南端タミル・ナードゥ州がその中心であるが、

 スリランカのタミル人の間でも行われる。

 先に紹介したジャフナ市はその北端の 都市で

 タミル・ナードゥ州と海峡を隔てて向かい合っている。

 牛小屋を焼いたのも

 実は一月十四日ポンガルの日のことであった。
 
 タミルと日本語との関係はもちろん、

 ポンガルと日本の民間風習との関連についても

 『日本語以前』に詳しいが、

 これら伝統的慣習の日本との対比はタミルに限られない。

 地域限定をはずしても貴重な報告である。

  『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 マカラ・サンクランティ

 ポンガル

 タミル・ナードゥ州

 タミル人

 ジャフナ市

 日本語以前

 タミル語
 

左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:68頁

 第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 (2)

  三九郎・どんど焼は長野県で使われる名称である。

 この左儀杖と三九郎は

 実はサンスクリットに祖語を持ち、

 しかも同一語から転訛したものである。

 ここまで述べてきたインドの祭礼でいうところの

 サンクランティ Samkranti/Sankranti がそれである。

 この用語はタイの三月中頃、

 ちょうどインドのホーリー祭の頃

 行われる水かけ祭 

 ソンクラン Songkhla/Sankrandhi ともなっている。

 タイでは一週間国中どこへ行っても同様に色粉や水をかけ合う。

 最近は水ポンプで豪快にかけてくる。

 自動車のフロントガラスも赤粉で前が見えなくなる。

 それは、ともかく、

 左儀杖は、

 中世に左儀打とも書かれたが (S)an(k)ran(t)I
 
 の三音を取ったもの、

 三九郎は、(S)(a)(n)(k)®anti の四音を取ったものである。

 どんど焼は左儀杖のサンスクリット語 danda の転訛したもので、

 杖のほか棒、竿、木を意味することはすでに述べたところである。

 この行事はホーリー祭の主旨に同ずるもので、

 返ってホーリー祭の原点を補足説明をもしているのである。

  『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 サンクランティ

 ソンクラン

左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:67頁

 第一章 左儀杖・左義長・三九郎・どんど焼 (1)

  インドにおいては、

 一年のうちで全土的に重要な伝統的祭礼がもう一度ある。

 一月中旬のマカラ・サンクランティ Makara samkranti である。

 太陽が黄道上の南から北へ入る日を吉祥の日として祝うのである。

 太陽暦の一月十五日、日本ではいう旧正月がその日に当たる。

 ヒンドウーの暦で太陽が星座にいうマカラ宮に移転 samkranbi する。

 つまりマカラ月が始まることから、

 この吉日はマカラ・サンクランティと呼ばれる。

 この日聖地においては沐浴すると罪、穢れが消えるという。

  さて、日本で一月十五日に古来行われてきた行事に、

 宮廷における左儀杖、また地方により呼称が異なるが、

 三九郎・どんど焼ある。

 左儀杖は三毬杖とも書かれ、

 禁中清涼殿の東庭で青竹を束ね立て毬打三個をゆわえつけ、

 吉書を添えて扇子、短冊ともどもに謡いはやしつつ

 火をつけ燃え上がらせたという行事で、

 市中の巷間で一般的に長い竹数本を立て

 正月の門松、注連(しめ)縄、書初めなどを地域ごとに寄せ集めて焚く。

 その火で餅を焼く風習があり、

 これを食べれば病気や災難などを除けられるという。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 左儀杖

 左義長

 三九郎

 マカラ・サンクランティ

 黄道

 マカラ宮

 どんど焼

 三毬杖

 清涼殿

 門松

 注連(しめ)縄

 書初め
 

2013年7月23日火曜日

ホーリー祭(8)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:66頁

 第一章 ホーリー祭 (8)

  ホーリー祭の翌日はお正月である。

 新年を迎えたことを祝って人々は、

 午前中は色粉や色水を互いにかけあう。

 いわゆる水かけ祭である。

 午後になると着飾って親戚や教師、職場の上司など

 常日頃お世話になる人々に新年の挨拶をするため出かける。
 
 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 水かけ祭

ホーリー祭(7)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:65頁

 第一章 ホーリー祭 (7)

  インドの Holi のサンスクリット類似語は khali で杵をいう。

  khali-stoka で杵臼を表す用例がある。

  khala は打穀場を時には穀物そのものを表す。

 その上興味ひくことに khalā は悪婦をいう。

 ヨーロッパの言語に拾ってみると、

 ドイツ語では prügel で棍棒、むち打ちを

 英語では pole で棒、柱、竿の意である。

 さらに同意語をサンスクリット語に捜ってみると

  danda があり棒、杖、竿、木を表す。
 
  danda はインド神話の地界の、

 つまりホロンと同じように冥界の神

 ヤマ Yama 神の武器である。

 このようにみてくるとホーリー祭の実像がみえてくる。

 暑さを増しつつある三月のこの時季、

 旱魃をもたらす砂漠の熱風の代名である

 毒婦を火神アグニの神徳で追放し、

 収穫が近づいた大麦などの麦類の豊饒を願って、

 採入脱穀の象徴である杵を神格化して崇め、

 火神アグニに使い古しの杵や竿を火に投じてささげたのである。

 アグニ神には人々に災苦をもたらす

 魔界の力を圧えつける力があるのである。

 悪魔を容赦なく絶滅させた物語は

 インドで最古の聖典『リグ・ヴェータ』から語られている。

 巷間に人気高い物語は

 『ラーマーヤナ』にラーマ王子の宿敵として登場する

 暴虐の魔王ラーヴァナもアグニ神にはかなわない。

 コントロールされるのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 インド神話

 アグニ

 サンスクリット語

 リグ・ヴェータ

 ラーマーヤナ

 ラーヴァナ

ホーリー祭(6)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:64頁

 第一章 ホーリー祭 (6)

  ウガリットは後に地中海沿岸に建国された

 フェニキアに吸収されたが、

 ウガリット語を基礎にしたフェニキア文字は

 ギリシャに取り入れられ、

 現在我々が日常的に使っているアルファベットを誕み出した。

 このアルファベットのアルファはセム語の牡牛を意味する

  alp がギリシャ語に取り入れられたものである。

 ギリシャ語の αλψιτ は碾割(ひきわり)大麦を表し、

 碾臼で大麦をあらびきするのに牛が活躍した名跡と考えられる。

  さて、カナアンの冥界の神ホロンは

 ギリシャ語で κορνη となり、棒、棍棒、杖の意味である。

 つまり、これは穀物を脱穀するのに使われ

 杵をもいうのであろう。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ウガリット

 フェニキア

 ウガリット語

 フェニキア文字

 アルファベット

 セム語

 ギリシャ語

 碾割(ひきわり)大麦

 

ホーリー祭(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:63頁

 第一章 ホーリー祭 (5)

 ホロンはしきりに嘆願する。

  家を開けて下さい。

  宮殿を(を開け)、私を休ませて下さい。

 この後、女神はさらに要求する。

  蛇を幾匹か持って来て下さい。

  私の花嫁料として、爬虫類を持って来て下さい。

  私の愛の報酬として、蛇の血を……。

 ホロンはこれについても承諾する。

 グレイこれらの詩句を

 「長期にわたって吹き荒れるシロッコに対する呪文とみなしている。」

 と見解を付している。

 この後どうなったか解らない。

 粘土板が欠落しているからである。

 しかし、

 続く詩句の中でこの女神が家ごと鍵を掛けられて焼き殺されたと推測する。

 カナアンのホロンは冥界の男神である。

 ホーリーは魔女である。

 全くの異なりをみせている。

 プロトタイプのホロン神話があり、

 カナアンでは冥界の神にホロンの名が与えられたが、

 インドに流入した神話では

 太陽女神の娘神がホーリーとされたのであろう。

 枯木やボロ布を集めて魔女ホーリーに見立てて燃やすというのは

 カナアン神話でいう太陽女神の娘神に擬装しているのである。

 大野晋著『日本語以前』によると

 スリランカのジャフナ付近では祭りの日

 円屋根がつき木材で建詰めされた牛小屋を焼いてしまうという。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 プロトタイプ

 日本語以前

 スリランカのジャフナ

ホーリー祭(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:62頁

 第一章 ホーリー祭 (4)

  さらに

 「我々が見出すところから判断して、

  そこには日照りへの言及があり、

  それは暗闇と一対になって太陽がぼんやりとかすんでしまうほど

  ひどい埃をもたらすシロッコ、

  すなわち砂漠の熱風を示している。

  我々はこの神話が植物を枯らしてしまう

  長期にわたるシロッコに対する

  特別の呪文としての蛇の「乳しぼり」との関連で

  用いられたと言いたい」と述べている。

 大地の毒の力とは砂漠の熱風

 すなわち旱魃を起こす自然の脅威をいっているのである。

 冥界の神ホロンは

 次に蛇の姿をした太陽女神の娘である女神に花嫁料、

 もしくは

 好意に対する報酬と思われるものを支配の約束をする。

 数段の物語の後、

 精力に満ちたホロンが女神のところへやってくるが、

 女神は家に鍵をかけて開けてくれない。

  彼女は彼に対し、呪文で家に鍵をかけ、

  彼女は彼に対し、家を閉じ、

  彼女は彼に対し、ブロンズ(のかんぬき)で鍵をかけた。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 シロッコ

ホーリー祭(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:61頁

 第一章 ホーリー祭 (3)

  さて、ホーリーはカナアン神話と関連がありそうである。

 カナアンとは、シリアの古代名で旧約聖書にいわれる地名である。

 ラス・シャムラで発掘された粘土板の神話のなかで

 冥界の神そして語られるホロン Holon と関係すると思うのである。

 ラス・シャムラは、

 古代名ウガリットで、

 シュメール(シュメル)の時代から

 フルリ人の影響を受けたとみらえれる。

 特に彼等が支配者階層を占めたとみられる

 ミタンニ時代には商業市として

 経済を支えた地中海沿岸の港湾都市である。

  ジョン・グレイ『オリエント神話』によると、

 その粘土板には太陽の女神が大地から暗闇を取り去るように

 懇願されることによる詩句から始まる。

 次の詩句が出てくる。

  大地の毒の力を
 
  有害な噛みつく獣の口から

  破壊的な大食漢の口から(暗闇を取り去って下さい)

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 カナアン

 カナアン神話・ウガリット神話

 旧約聖書

 ラス・シャムラ

 シュメール(シュメル)

 フルリ人

 「ミタンニ王国」を含むブログ

 ウガリット

 オリエント神話

 

ホーリー祭(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:60頁

 第一章 ホーリー祭 (2)

 しかし、この魔女ホーリーの実像は

 いろいろの説があって実のところ解っていない。

 地方ごとに解釈が異なり、

 ドゥルガー女神のように地方によって名前が変わっても

 明らかに同女神であることが解るような共通性がみえていない。

 最もよく知られる伝承は、

 ある魔王が信心深い自分の息子をうとましく思い、

 自分の妹であり不死身だと知られた

 ホーリー(ホーリカー)がその息子を抱いている時

 火をかけ焼き殺させようとしたが、

 反対に妹が死んでしまい、

 息子は信心深さ故に助かったという神話である。

 悪いものを焼き滅し、

 信心深い者あるいは善いものの

 残り盛んになることを祈願する祭であると解釈されている。

 翌日が正月で、新しい月名は

 チャイトラ Caitra といい、

 月替わりのことを

 チャイトラ・サンクランティ Caitra-Samkranti という。

 「チャイトラ月への移転」という味である。

 チャイトラは火神アグニと関係するので、

 この祭礼で魔女を殺すことと係りがある。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ホーリー・フェスティバル(色の祭典)

 アグニ

ホーリー祭(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:59頁

 第一章 ホーリー祭 (1)

  ドゥルガー・プージャーがデーヴィー女神を

 賛美する豊穣祭であることが明らかになった。

 この祭礼は毎年九月下旬秋分の日

 (太陽暦九月二十三日頃)をはさんで行われる。

 また、この祭礼が大麦と関係が深いとみえてきた。

 実は、祭礼の終わった後、西インドでは

 大麦、小麦などの麦の耕作期を迎える。

 十月から十一月が播種期で

 翌年の三月・四月に収穫期がやってくる。

  その三月、

 春分の日(太陽暦三月二十一日頃)をはさんで行われるのが

 ホーリー Holi 祭である。

 インドのヒンドゥー暦(インド国定暦)での

 十二月大晦日と新年の一月一日がやってきて正月となる。

 インドのヒンドゥー暦の最終月はバーグン月というが、

 その満月の夜、つまり大晦日の夜に

 街や村の路地に枯木、古布、古い家具を積み上げ、

 魔女ホーリーになぞらえて火を燃え上がらせる。

 魔女ホーリーの名に依ってホーリー祭と呼ばれる。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ホーリー祭

 ヒンドゥー暦

 魔女ホーリー

2013年7月22日月曜日

淀姫と矢保佐神社(6)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:58頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (6)

  最後に、淀姫神について肥前国風土記に載る

 景行天皇の妹君の名が淀姫(豊姫・世田姫)で、

 その姫を祭るとの由来伝承をどう評価するかであるが、

 『角川地名大辞典』がいう通り真偽の程は疑わしい。

  京都府伏見区淀本町に「與杼(よど)神社」がある。

 同社はまた佐賀県大和町の与止日女神社から

 平安時代の応和年間に招請されたので、淀姫神社とも呼ばれる。

 延喜式乙訓郡に記載された古社である。

 延喜式山城国に葛野郡に坐す

 「大酒神社元名大群神」があり、

 大群神はまたデーヴィー神を表す。

 「大酒」とされるのはドゥルガー神の別称

 麻多羅 madira を祭神としているからで、

 「酔わせるもの、酒精飲料」を意味している。

 兵庫県赤穂市坂越(さこし)に大避神社がある。

 祭神は大避大神で大酒大明神ともいう。

 同社の所在地坂越は古史料に

 尺師と記されているようにシャクシで、

 延喜式山城国乙訓郡に載る

 「白玉手祭耒酒解(さかとげ)神社名神大元山埼社」

 の社名と同様

 サンスクリット語 šakti の転訛であり、

 シヴァ神の神妃としてのデーヴィー神を象徴する。

 「白玉手祭耒」は

 現在の京都市右京区梅津フケノ川町の

 梅宮大社の地をかっては玉手といったためで

 「延喜式」葛野郡に「梅宮坐神田社並名神大」

 と記載されている同社より酒解神を招請し奉祭したという

 説明書きをつけているのである。

 梅宮のウメはウマー Umā で、

 これもデーヴィー女神の別称である

 酒解神がデーヴィー女神であることがこれでも解かる。

 社伝によると

 同社もまた現在の綴喜郡井手町付近の山城国相楽郡井手庄から

 平安初期に鎮座替えされたという。

 井手には現在玉川が流れ、玉水あるいは玉津の地名がある。

 ところで「井」はセキ、シャウと訓ずるので

 「井手」の音読はシャクティであり、

 デーヴィー女神を表している。

 京都から流れて大阪湾に入る淀川は

 この淀姫の名に依る物である。

 ただし、応和年代(九六一~九六四)は

 神名帳の編まれた延喜(九〇一~九二三)より後なので、

 神名帳に記す同社の祭神については

 別の解釈をしなければならない。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 肥前国風土記

 角川地名大辞典

 與杼(よど)神社

 与止日女神社

 延喜式

 大酒神社元名大群神

 大避神社

 大酒大明神

 白玉手祭耒

 梅宮大社

淀姫と矢保佐神社(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:57頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (5)

  松浦市の西に田平(たびら)町がある。

 田平はデーヴィー Devi の転訛で、
 
 町内に

 淀姫神社(上亀免)、矢保佐神社(山内免)が鎮座している。

 この田平あるいは歴史の経緯のなかで

 田之平称される在所は長崎県内にかなりある。

 (松浦市志佐田平免、南高来郡吾妻町田之平免、

 南串山町京都泊名の田平、北有馬町田平)

 また、

 このデーヴィーの転訛と判断できる地名に田原がある。

 (松浦市御厨町田原免、平戸市田原免、佐世保市田原町、

 北松浦郡佐々町本田原免、小佐々町田原免、

 吉井町田原免、北高来郡小長井町田原名)

 また、

 田平町田代免にある阿羅仁神社には、

 曙晄を表す aruni を神社名としたもので、

 デーヴィー女神に係わる呼称である。

 田平町の南に鹿町町がある。

 鹿町カーマ Carma で皮革、獣皮の意であり、

 同町内には五社、

 東隣りの江迎町内に五社、

 田平町内に四社鎮座の鎌倉神社と関係している。

 つまり、

 鎌倉は Carmakārā/Cammakārā の転訛で

 皮革職人または皮製物品を表すからである。

 平戸市のある平戸島の平戸は

 和名抄で庇羅郡、

 日本後紀に値賀島と載ることを考慮すると、

 やはりサンスクリット語の智恵、知識を意味する

  veda の転訛であることを指摘しておきたい。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 阿羅仁神社

2013年7月21日日曜日

淀姫と矢保佐神社(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:56頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (4)

  松浦とは、

 そのように天の神の恵みの土地なのである。

 現在松浦郡は佐賀県と長崎県にまたがっているが、

 矢保佐神社は

 唐津市、西有田町、呼子町、松浦市、平戸市、佐世保市

 などに広がっている。

 また、

 淀姫神社も矢保佐神社の分布と重なるように

 佐賀県、長崎県に分布しているが、

 特に取り上げておきたいのは、

 佐賀県佐賀郡大和町の河上神社である。

 延喜式神名帳に肥前国四座のうち、

 佐嘉郡一座として記載されている

 與止日女神社の比定社である。

 祭神は與止日女命で、

 欽明天皇の時に創祀されたとの伝承を持つ古社である。

 大和町の北富士町無津呂も末廬(松浦)と語源を同じくとする。

  Madhura は、

 古代インドで都市名に取り入れられ現在にまで至っている。

 あの「本生図と踊子像のある石柱」が発掘された町

 マトゥラー Madhurā 市、英語でマッラ Matura と称せられる

 古代紀元前七・八世紀に十六国の一に数えられた

 マッヤ Matsuya 国の首都のことである。

 長崎県松浦郡の地名について補足すると、

 佐々(ささ)町は薬草、草、穀物を意味する sasa 、

 佐世保(市)は若草あるいは発芽した穀物の芽、

 ここでは麦芽を意味する śaspa の転訛である。

 マッーラは、

 ドゥルガー女神の供物ではあるが、

 古代には健康を保つために極めて重要なもので、

 ときには薬としても重宝がられたのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 延喜式神名帳

 河上神社

 與止日女神社

 本生図と踊子像のある石柱

淀姫と矢保佐神社(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:55頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (3)

  さらに、御厨町および調川町に

 矢保佐神社と称する神社が鎮座している。

 このこれまで正体の知られなかった神社も

 正にドゥルガー女神信仰に係わっていたのである。

 矢保佐は大麦のことである。

 サンスクリット語の大麦 yavasa で、

 その転訛が矢保佐なのである。

 この地方ではドゥルガー女神を信仰し、

 大麦を供え、その豊饒を祈願したのである。

 そして女神から、

 つまり神社から供物として、
 
 麦芽モルツが人々に配られたと考えられる。

 というもの、この地方名松浦郡は

 「魏志倭人伝=魏書倭人章」に登場する末廬に依拠し、

 末廬はマツーラ、

 麦芽モルツから作られた水飴あるいは麦芽糖のことで、

 サンスクリット語 madhuura の転訛した甘味、甜、蜜、

 石蜜奨を意味する。

 後世仏教の時代となって、

 お花祭り、つまりお釈迦さまの誕生を祝う祭りの日、

 寺院では訪れた信者に甘茶がふるまわれたことにも共通する。

 この慣習は

 古代インドの神々の恵み甘露を礼拝者にふるまったことに由来する。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 調川町

 矢保佐神社

淀姫と矢保佐神社(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:54頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (2)

  御厨の地名は鎌倉期に宇野御厨荘としてみえ始める。

 延喜式には「肥前国堧野牧」が載っているが、

 この牧では牛が養育されていたと思われる。

 後の「国牛十国」には御厨牛の名があり、

 「肥前国宇野御厨が牛を貢めたので、これを御厨牛と称する。

  角が長く、骨は太く、皮突は厚く、えだ肉も太い。

  ほとんどの牛は(体躯)大きい。

  中世・古代の名牛は、

  多くの場合ここから産出されたものである」

 と紹介されている。

 御厨の地名は、史料的には鎌倉期からであるが,

 実際はそれよりかなり古いものと推測できる。

 堧野牧もやはり「クリヤ牧」であったと考える。

  松浦市御厨町に僯して志佐町がある。

 その志佐町浦免に淀姫神社が鎮座している。

 淀姫とは、実にドゥルガー女神を呼んだものである。

 淀はサンスクリット語の yodha または yudha の転訛で、

 軍兵、武士をまた戦闘、合戦を表す。
  
 ドゥルガー女神を戦闘の女神と解釈し、直訳寄名したのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 御厨の地名

 志佐町

 志佐町浦免淀姫神社

 ドゥルガー女神

淀姫と矢保佐神社(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:53頁

 第一章 淀姫と矢保佐神社 (1)

  大麦は日本神話にも登場する。

 古事記の大気比売神の屍のうち陰部に麦が生じ、

 日本書紀の保食神の段にも陰部に

 大豆・小豆共に化生したことが述べられている。

 麦との表現だけでなく大麦なのか小麦など

 他種の麦なのか判明しないが、

 以下の考察によりやはり大麦が優先されると考えられる。

  保食神の祀られている神社として、

 長崎県松浦市御厨町郭公尾免の保食神社を上げたが、

 延喜式神名帳には記載されてはいない神社とはいえ、

 たいへん興味を引く神社である。

 保食神、ウケ・雄牛を食膳とする神であることは

 すでに述べてきたところである。

 この保食神社のある地名御厨町の「厨(くりや)」は

 サンスクリット語 kriyā の転訛である。

 本来は、製作、実行、仕事の意味であるが、

 祭式、供犠、儀式を意味し、

 調理をも内容とする。

 保食神の調理場がこの地区の名称なのである。

 この地方に神社への御供所としての認識は

 古くからあったと知られていrる

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 淀姫神社

 矢保佐神社

 大気比売神

 保食神

 長崎県松浦市厨町郭公尾免の保食神社

 御厨町

2013年7月20日土曜日

ドゥルガー・プージャー(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:52頁

 第一章 ドゥルガー・プージャー (5)

  この大麦、豊饒を願う犠牲祭において、

 供儀される動物の頭にふりかけられるのが

 儀式の慣例であった形跡がある。

 ギリシャ語と残る ολαι 、ολων は

 その大麦の粒のことで、

 屠殺の前に犠牲獣の頭にふりかけた。

 この慣習は、

 中国雲南省の少数民族の殺牛儀礼にも、

 大麦が穀物特に米の粥に交替しているが、

 踏襲され反映している。

  大麦の「モヤシ状なるもの」は明らかに麦芽である。

 麦芽が礼拝者に配られることは、

 ドゥルガー女神が豊穣の女神であることの明白な証左であろう。

 麦芽は、

 ビールの原料つまりモルツであり、水飴を作ったり、

 麦芽糖の原料にされた。

 ビールはメソポタミアのシュメル時代にすでに醸造され、

 祭礼にも用いられた。

 モルツは、

 ドイツ語で Malz 、

 英語で malt 、

 サンスクリット語では valśa 、

 芽あるいは枝の意にはなっている。

 大麦を表すサンスクリット語は、

 穀類穀粒をも意味する yava ないし yavasa である。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 雲南省

 麦芽

 モルツ

 サンスクリット語

ドゥルガー・プージャー(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:51頁

 第一章 ドゥルガー・プージャー (4)

  ドゥルガー女神が豊穣の女神であることをうかがわせる報告が

 小西正捷の『インド民衆の文化誌』にみえる。

 バナナの若芽が女神の姿にされて祭壇に供えられること、

 ビルヴァ(ベール)の木や大麦が密接に関わっているとの報告である。

 特に

 「プージャーの第一日目に大麦の種が播かれ、

  十日目に引き抜かれてモヤシ状となったものを供物として信者に配る。

  米どころのベンガルで、

  なぜわざわざ大麦が重要視されるのかは

  この祭りの起源を示唆するものかもしれない」

 と書いている。

 そうなのである。

 大麦は、

 ドゥルガー・プージャーを考える上に大変重要な用件である。
 
 大麦は、現在のインド人を構成し、

 インド文化の基礎を築いた

 アーリア人の原初的な主食作物であったのである。

 しかも彼らは牛の遊牧が得意であったらしい。

  大麦は紀元前九千年以前から始まった農耕文化の中で

 重要な役目を持っていた。

 ヨーロッパから中近東、エジプト、ペルシャ、インダス河流域まで、

 その耕作地域は広い。

 メソポタミアでは、主要食料であり、経済の主人公でもあった。

 日本の江戸時代における米の役目を果たしていたのである。

 税として徴収され、都市の中には俸給として役人などに配給されたり、

 労務者の俸給として支給した例もある。

 インダス文明のモヘンジョダロやハラッパの遺跡では

 遺物の中に大麦が発見されている。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 インド民衆の文化誌

 バナナの若芽

 ビルヴァ

 大麦

 インダス文明

 モヘンジョダロ

 ハラッ

ドゥルガー・プージャー(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:50頁

 第一章 ドゥルガー・プージャー (3)

  カルカッタ市のある地域では、

 地域の名家や共同体が寄付金を集めて、

 等身大あるいはそれ以上に大きい豪華な女神像を作り上げる。

 もちろん十の腕を備え、

 目を剥いた怒りの形相である。

 祭りの日多くの女性が集まる。

 祭司による礼拝儀式の後、

 女性たちは天界に帰るという

 女神の旅路のために食物を供える。

 食物を献げることが供養プージャーなのである。

 女神の祝福を受けた既婚の女性たちだけが

 相互の額に赤い粉をつけ合って

 平穏な生活が続くことを願うという。

 祭礼の日の夕暮れ、

 祭りの最後には男たちが女神像を担ぎ出して、

 ガンジス川の支流フグリ河畔に向け練り歩く。

 川岸に着いてから船に像を乗せ、

 河の中程まで運び流れに乗せる。

 女神はガンジス河に入り、

 巡り廻って天界に帰っていくというのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 カルカッタ・コルカタ

 ガンジス川

 フグリ河

2013年7月19日金曜日

ドゥルガー・プージャー(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:49頁

 第一章 ドゥルガー・プージャー (2)

  しかし、注目すべきはドゥルガー・プージャーである。

 毎年九月秋分の日をはさんだ数日間行われる祭礼のことである。

 プージャー pujā とは礼拝供養を意味する。

 その祭神が女神であることにより女性の活躍する祭りとして

 各地において盛大に行われる。

 地方ごとにその祭事の様相に異なりをみせている。

 ベンガルのある地方では街角や路地に紅白の幔幕を張り廻らし、

 中に祭壇をしつらえ、

 ラクシュミー、サラスヴァティーの女神像と共に、

 ドゥルガー女神の図像が中央に掲げられる。

 祭礼の日には、香が焚かれて煙がたなびくなか、

 太鼓が鳴り、人々は盛装して参拝に訪れる。

 プージャーは礼拝であるので、

 供儀つまり動物を殺して献げるようなことはしない。

 しかし、供養として果物や穀類は献げられる。

 祭礼の主旨は、

 ドゥルガー女神が雄牛の姿をした

 悪魔マヒシャを退治してくれたことに感謝し、

 女神を讃えて礼拝するというものである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ラクシュミー

 サラスヴァティー

 プージャー

 マヒシャ

ドゥルガー・プージャー(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:48頁

 第一章 ドゥルガー・プージャー (1)

 豊穣の女神として、

 現在でもインドの人々に日常的にいかに崇拝されているかは、

 彼女の図像が民家の台所やレストランの厨房に

 掲げられていることで明らかである。

 ドゥルガー女神信仰は

 東インドのベンガル地方と南インド地方に盛んといわれる。

 女神を祀った寺院は、

 ヒンドゥー教徒が沐浴の聖地として訪れることで有名なガンジス河岸、

 ウッタル・プラデーシュ州の通称ベナレス、ワーラーナシー市にある。

 猿が多くいることで有名なモンキーテンプル・ドゥルガー寺院や

 インド亜大陸中央部に広がるデカン高原の

 カルナータカ州北部バーダミ市郊外のアイホーレにある

 ドゥルガー寺院が名高く、多くの信者を集めている。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ドゥルガー

 ドゥルガー女神信仰

 ベンガル地方

 ヒンドゥー教

 ガンジス河岸

 ウッタル・プラデーシュ州

 ワーラーナシー

 ンド ベナレス 画像

 ドゥルガー寺院

 インド亜大陸

 デカン高原

 ドゥルガー寺院・アイホーレ

デーヴィー・マハートミヤ(6)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:47頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (6)

 デーヴィーの戦いの端緒は

 「ドゥルガーが、神々を天国から追い出し、

  森へ入って暮すよう強制したこと」であった。

 多分人々は旱魃のために耕地が破壊や疲弊し、

 作物の収穫が上がらず、止むを得ず森林の産物、

 バナナなどの果物や果実に頼って

 生活しなければならなくなった経験があり、

 古代のインドの人々にとって

 旱魃といかに対処するかが重大な仕事であったかを

 教えてくれる神話なのである。

  旱魃がいかに過酷で過重な苦闘が繰り返されたかを

 物語りにしたのが、

 デーヴィーの水牛あるいは牡牛の魔物

 マヒシャまたの名ドゥルガーとの戦いなのであった。

 そして、悪魔との戦いに勝利する。

 つまり自然の脅威や災害に打ち勝って後

 もたらされるのは豊饒の喜びである。

 ドゥルガー女神はまた豊穣の女神、

 安穏を与えてくれる女神なのである。

 食料を豊富に確保し食膳の喜びを与えてくれる

 女神なのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

デーヴィー・マハートミヤ(5)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:46頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (5)

  デーヴィー・マハートミヤには、デーヴィーの英雄譚として

 さらに別の物語を載せている。

 一万一千年に及ぶ苦行の 功徳によって

 シヴァ神からいかなる神の攻撃を受けないと保証を得ていた

 スンバとニスンバという兄弟の悪魔との戦いの物語である。

 さまざまな軍勢との戦い後、

 デーヴィーはスンバとニスンバと一騎打ちで戦い、

 双方を殺し勝利を収める。

  このようにして、デーヴィーは神々を代表し悪魔と戦い、

 勝利を得て戦いの女神として象徴化されたのである。

 だが、戦いの相手となったドゥルガーは単に水牛の化物で

 悪事を働いたからというだけなのだろうか。

 そうではない。

 ドゥルガーは、自然の脅威、旱魃を象徴しているのである。

 ドゥルガー女神の神名が durga 、

 つまり困難を冠したものであることを述べた。

 この語には困難のほか、

 近づき難きもの、近づき難き処、険阻な処の意味がある。

 しかし、これでは抽象的すぎる。

 そこで同字義でご語音の近い用語を

 インド・ヨーロッパ語に捜ってみると、

 英語に drought が出てくる。

  dry に由来した旱魃を意味する用語である。

 ドイツ語の同義語は dürre 、

 ギリシャ語では δηλησνζ 破壊 δηλητηρ

 破壊者と変化する。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

2013年7月18日木曜日

デーヴィー・マハートミヤ(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:45頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (4)

  今や、ドゥルガーは山のように大きい象に化けたが、

  デーヴィーの偃月刀のような瓜によって切られ、断片となった。

  すると彼は、巨大な水牛となり、

  その鼻息によって木々をちぎり、

  これを石や山と一緒に女神めがけて投げつけた。

  しかし、デーヴィーは三叉槍で彼を突き刺し、

  その正常な姿

  ―千本の腕をもち、その―本―本に武器を携えている悪魔―

  を取り戻すよう強制した。

  女神はその千本の手で彼の腕をつかみ、引きずりおろした。

  それから、彼女は―本の矢で彼の胸を貫いた。

  彼は死んだ。

  血がその口から流れ出た。

  勝利のあと、デーヴィーは自分の名をドゥルガーとした。

 こうしてデーヴィーとマヒシャとの戦いは収束したが、

 水牛ないし牡牛を殺戮する場面が、

 エローラ石窟第一四号窟に浮彫された情景なのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 ドゥルガー

 デーヴィー

 マヒシャ

 エローラ石窟第一四号窟

2013年7月17日水曜日

デーヴィー・マハートミヤ(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:44頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (3)

  デーヴィーがマヒシャの領土に近づくと、

  悪魔は彼女を捕らえようとした。

  マヒシャの軍勢、

  一億台の戦車、

  一千二百億の像、

  一千万頭の馬と無数の兵が待ち構えていた。

  デーヴィーも援軍としてさまざまな被造物を集め整えた。

  戦いが始まる。

  デーヴィーは矢の嵐と木と岩の洪水に攻撃された。

  しかし、一千本の腕を生やしたデーヴィーは

  ドゥルガーに武器を投げつけた。

  武器は彼の軍勢の多くを死滅させた。

  ドゥルガーは二本の燃える投槍でこれにこたえたが、

  デーヴィーは一千本の腕でこれをかわした。

  別の一本の矢、一本の棒、一本の大釘も女神によってかわされた。

  そして、女神は悪魔を捕らえ、その上に足をにせた。

  彼はもがいて逃れ、戦いは再開した。

  今やデーヴィーはおのれ自身の身体から九百万の被造物を創出し、

  これらが悪魔の全軍を打ち滅ぼした。

  彼女はまた武器サショヌを持ち出した。

  これはドゥルガーの作り出した霰(あられ)を伴った嵐から彼女を守った。

  それから、悪魔は彼女めがけて山を投げた。

  彼女はそれを七つに切断し、矢を打ち込み、無害なものにした。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

デーヴィー・マハートミヤ(2)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:43頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (2)

 この神話は、悪魔ドゥルガーが三界を征服し、

 神々を天国から追い出し森へ入って

 暮すよう強制したことに始まる。

  神々はシヴァ神に助けを求めたが、

  彼は妻であるデーヴィーに相談してほしいといい、

  デーヴィーは助力を承諾した。

  神妃デーヴィーは特別に創りだした闇夜を送ったが、

  悪魔たちには勝てなかった。

  そこでデーヴィーは自ら戦いに加わることを決意し、

  カイラーサ山を出発した。

  戦いに臨む彼女は猛々しく威嚇的な表情になり、

  十本の腕を持ち、虎に乗っている。

  神々は悪魔退治に向かう彼女に

  それぞれに象徴される武器を十本の腕に携えるよう与えた。
  
  ヴィシュヌ神の円盤、

  水の神ヴァルナの巻貝、

  火の神アグニの燃える投槍、

  風の神ヴァーユの弓、

  太陽神スーリヤの箙と矢、

  地界の神ヤマの鉄棒、

  インドラ神の稲妻、

  財宝神のクベーラの棒、

  龍神シェシェの蛇の花輪、

  山岳神ヒマラヤの攻撃用の虎

  がデーヴィーの武器となったのである。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 ヒンドゥー教の神々

 《Key Word》

 デーヴィー

 カイラーサ山

 ヴィシュヌ神

 水の神ヴァルナ

 火の神アグニ

 風の神ヴァーユ

 太陽神スーリヤ

 地界の神ヤマ

 インドラ神

 財宝神のクベーラ

2013年7月16日火曜日

デーヴィー・マハートミヤ(1)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:42頁

 第一章 デーヴィー・マハートミヤ (1)

  ここに造形されたモティーフはドゥルガーの英雄譚

 「デーヴィー・マハートミヤ Devi-mahatmya 」に依拠している。

 デーヴィーは前に述べたようにドゥルガーの本称、

 マハートミヤは大勝利、大業の意で

 「デーヴィーの大威徳伝」というのが名称である。

 シヴァ神の女性的力( śakti )の象徴であるデーヴィーには

 二面がある。

 猛々しい一面とやさしい一面である。

 前者の代表はウマーでヒマラヤ山の生まれで黄金の神である。

 ドゥルガーは後者の猛々しい姿を表す。

 この神名は本来水牛の悪魔の名前であって、
 
 彼女が、このドゥルガーと呼ばれた

 マヒシャースラを殺したことにより

 その名を与えられたのである。

 英雄譚には悪魔との戦いの原因、経緯、

 最後に悪魔を死に至らしめた戦いの情景が描かれている。

 ヴェロニカ・イオンズの「インドの神話」に

 その戦いの有様を紹介してもらう。

 『参考』

 まんどぅーかネット

 《Key Word》

 デーヴィー・マハートミヤ

 デーヴィー・マハートミヤ

 シヴァ神

 マヒシャースラ

 ヴェロニカ・イオンズの「インドの神話」

 ヴェロニカ・イオンズの「インドの神話」