2015年8月23日日曜日

茨田神社と茨田


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:371~376頁

 第6章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 茨田神社と茨田

  延喜式神名帳山城国乙訓郡のうちに「茨田(また)神社」が

 記載されている。

 この神社名を持つ現存の神社が見当たらない。

 そのため京都市南区上久世町の綾戸国中神社のうち

 合祀されている一方の綾戸神社を充てる見解もある。

 神名帳には訓読として社号の右に「マタ」左に「スイタ」と

 付している。

 茨の訓音は「シ」、「次」は「シにしジ」であるので

 「スイタ」が原語に近く「シタ」「スィタ」であったと言える。

 「シタ」の付く神社名は

 南区久世大藪町に鎮座する木下神社がある。

 語頭の「木」を「クサ」と解釈したこと及び

 当神社がある久世(クセ)であることを加味すると、

 木下は「久世茨田」と解釈できる。

 よって、茨田神社の比定地社は木下神社となる。

 すでにみたようにこの地は秦氏の勢力の中心地であった。

 大藪町のヤブはヤハウェ神の別称

 YH(ヤハウェ神名をむやみに呼ばないための別称)

 の転訛である。

 「スイタ」名は南の久世郡の神名帳にも載る

 「水度(みとの)神社」の訓読にも係わる。

 同社は城陽市寺田宮の平に現存するが、

 やはり秦氏の勢力地に鎮座している。

 茨田名は秦氏と強い係わりを表す。

 後に触れるが亀岡市の矢(や)田町は本来「シタ」であり、

 丹波に矢田神社がみられるのはここから始まる。

  延喜式神名帳河内国に茨田郡が載る。

 同郡は明治29年に廃止され北河内郡へ合併されたが、

 現在の枚方市と交野市の地域である。

 茨田の初出は『古事記』仁徳天皇記の

 「役秦人作茨田堤、茨田三宅」である。

 『日本書紀』の

 仁徳天皇紀、宣化天皇紀にも茨田屯倉があらわれる。

 秦氏に役目を担わせて淀川の堤防を築き、

 農業地を造成させたいうものであるが、

 秦氏はここに居住することになったか、
 
 以前から居住していたことになる。

 『古事記』には景行天皇の御子の名を挙げ

 「櫛角別王者茨田下連等の祖」としている。

 櫛角名は荒樔田について述べたように

 「アラクサクルセ」つまり「牛頭の角」を

 彷彿させる名称である。

  茨田三宅は中世に交野郡に入った。

 和名類聚抄交野郡三宅郷は

 現在の交野、磐船、星田のようで星田について
 
 吉田東吾が地名事典で

 「古の茨田屯倉遺号となるべし」と

 「スイダ」に依ることを推察しているが、

 現在の枚方市に鎌倉期からみえる津田にも当てはまる。

 すぐ南には交野市の織物神社のある倉治がある。

 茨田郡内の和名類聚抄に載る幡多郷は

 現在の寝屋川市太秦の地域で、

 新撰姓氏録には河内国諸蕃には秦宿禰とある。

  茨田の訓音を神名帳には「マタ、スイタ」、

 和名類聚抄には河内国茨田郡に「マツタ」、

 その茨田郡の茨田郷を「万牟多」としている。

 これは何を意味するのだろうか。

 実は茨田が秦氏と強い係わりを持つのは

 この事情のよるのである。

 「万牟」はヘブライ語の「水」の意味のMYMの転訛とみられる。

 また「マツ」は同じく

 「雨」を表わすMTsRあるいはMTsRITの音写であり、

 双方とも水神、降雨神を旨とする名称と考えられ、

 「スイ(水)」との表現が理解できる。

 また「水度」もその概念に依るだろう。

 ヤハウェ神が古代日本で水神として尊崇された事実は

 これから次第に明らかになっていくだろう。

 現在もそれは継承されている。

  またその神社名の表記として「茨」字を

 なぜ使ったかであるが、これもモーセの伝承に係わる。
 
 出エジプト記第3章において

 モーセがシナイのホレブの山で神の啓示を受けた時の節句は

 「ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。

  彼がみると、しばは火に燃えているのに、

  そのしばはなくならなかった」と語る。
  
 この神の坐す「しば」こそ「茨:いばら」なのである。

 またアブラハムが現在のエルサレムのモリヤの山で

 その子イサクを殺して神に燔祭の犠牲として献げようとした時

 「角をやぶに掛けている一頭の牡羊がいたと」語られる
 
 「やぶ」を連想させる。

 京都府南区久世の茨田神社であると述べた

 木下神社の所在地はもと藪といわれた大藪町である。

  秦氏が築いた茨田堤は水を鎮める事業であったことは勿論で、

 神名帳茨田郡に載る堤根神社も茨田神社の水神を

 祀ったものであろう。

 城陽市久世の水度神社も同じ同じ神を祀ったことが理解できる。

  このように茨田神社には、やぶ(いばら)の中に坐す水神

 ヤハウェ神が鎮座していると考えられるのである。

 ヤハウェ神はこのモーセの「十戒」の告知の故事から

 山の神エル・シダイ AL(山)-SDY(山頂)と呼ばれる。

 この呼称は創世記17章1に、

 主がアブラハムの99歳の時現れて告示があった時の言葉で、

 日本語では「全能の神」と訳されている。

 だが SDY はセム語(アッカド語)の山頂を表す

 複数形 šedu (単数形 šadu ) に依拠した用語である。

 ただし、シュメル語において šudu は「完全な」の意味であり、

 また、

 アッカド語 šedu は守護神として用いられているのであろう。

 これらの概念が移入されたものであろう。

 茨田の「シダ」は SDY の音写であり、

 秦氏の居住地では

 「シタ、セト、セタ」となって地名に留めている。

 南インド西海岸コーチン市隣接する

 マッタンチェリ Mattancheri 名とも関係する。

 ここがユダヤ人の古くからの居住地であることは
 
 すでに第6章ユダヤ人と月氏の


 「海洋交易商人」で述べた。


《参考》


 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ







 

 

 

 



 





 

2015年8月17日月曜日

荒樔田と開木代

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 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:369~371頁

 第6章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 荒樔田と開木代

  山城国の地名はこれまで山代、山背、国背など

 多様な表記がされている。

  万葉集巻11の旋頭歌に「開木代」との記があることは

 すでに紹介したが、

 それより古くは『日本書紀』雄略天皇より2代後の

 顕宗天皇紀に「歌荒樔田」とあり、

 注記に「山背国葛野郡」と記されているのが初出であろう。

 「歌」は葛野郡のうち右京区宇多野にその名称があるので

 大酒神社・広隆寺のある太秦の北側に当たる地域であろう。

 「荒樔田」をどこに比定するかであるが、

 宇多野の東側北区内に南北朝時代から最近まで

 「荒草」の地名があったことを考慮すると、

 これは「荒木巣田:アラクサダ」である。

 このような扱い方は、

 三重県伊勢の古族荒木田氏の名称が

 杭田(櫛田)を崩したものである例がある。

 松阪市を流れる川名、地方名に櫛田があり、

 それに依拠していることが解かる。

 「アラクサダ」はさらに省略を含んだ表現で、

 その祖語は旧約聖書創世記第10章に載る

 セムの子孫アルパクサデ Arpachsad である。

 その名称が北メソポタミアのアルパチア遺跡に係わり

 牛頭崇拝の聖地であったことは

 繰り返し述べてきたところである。

 後に「ヒラキド」と読まれ、

 大阪府の市名となる「枚方」が現れたのである。

  『日本後紀』弘仁6年に載る「国背」は国中と同じく

 クルジャの訛りであり、これが「山背」となったのは、

 クルジャの表現がヘブライ語の属すセム語で

 フルシュ huršu に近似し、

 その意味が山を表わしているからである。

 同語はシュメル語の同じ「山」を表わす

  hur-sang に依る用語であるが、

 ヤハウェ神は ilu-śede (神-山頂) と表記されるように

 山の神である。

 エジプトを脱出しはヤハウェ神がシナイ山の山頂で

 十戒(律法)を伝承したことによる。

 山背から、山城と山代ができたとみられる。

  秦氏が京都市東山祇園の八坂神社の祭祀に

 担ったことはよく知られる。

 その祭神は須佐之男命で、またの名称を牛頭天王という。

 祇園はエデンの園より流れ出て分かれた四つの川の一つが

 ギボン川と同名で、角を意味している。

  これまで月氏から秦氏になった状況について述べてきたが、

 彼等が単にヤハウェ神(ユダヤ教)だけでなく

 カナンの信仰(バアル)も合わせもっていた証しを

 示すことになった烈王紀下第18章

 イスラエルの人々がアッシリアのシャマネセルによって

 メソポタミアの東メディアなどへ捕囚された理由を

 「モーセの命じたすべての事に耳を傾けず、

  また行われなかった」と述べ、

  カナアン人の信仰を行っているように思えるである。


《参考》


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2015年8月15日土曜日

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:361~368頁

 第6章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 イスラエル人の日本定着

  第16章のイスラエル人と月氏でアッシリアによって

 強制移住させられたイスラエル人の後裔が

 月氏あるいは大月氏であるとの見解を述べ、

 彼等が絹商人として活躍し、後にアラビア海へ出て

 海洋交易商人へ変身し、

 第10章天毒とセリカで

 明らかにした絹の生産地セリカである漢大陸の東海岸沿岸、

 韓半島、倭である日本列島へ渡来したものと述べた。

 この月氏はそれらの地域で秦氏とその呼称を代え、

 中央アジア獲得した絹産業の技術を基礎に活躍することとなる。

 特に日本へ渡来した後の様子は以後の説明で明らかにするが、

 そこでは彼等がイスラエル人であった文化を継承し、

 それが現在にまで色濃く保たれていることが明白となる。

 その確認の上に立って秦氏が韓半島において

 確固たる勢力であったことを実証できるのである。

  『日本書紀』の応神天皇14年に

 「自分の国の120県の民を率いて帰化した」と

 「弓月君」が「百済より来帰」したことを記している。

  京都市右京区太秦にある

 大酒神社は秦氏の奉祭する神社として有名である。

 同社は延喜式神名帳に「大酒神社元名大群神」と載る

 神社であるが、

 この大群神をもってダビデ王DVD(David)の名であるとの

 見解を出した学者もいたが、

 それは妥当でなくインドの女神デーヴィであることを

 第1章祝祭「淀姫と矢保佐神社」において述べた。

 しかし、秦氏は同社の信奉に強く係わった。

 その理由を推測すると、

 その神名がダビデに近似していたことを、

 同社が毎年9月12日に開催する

 「牛祭」による牛と係わりがあることによると思われる。

 月氏の信仰の象徴とする三日月(弓月)が

 牛角であるからとの見解は既に述べた。

 弓月はクルジャ kulja で、

 ヘブライ語の GLY-TsRh (glil-tirh) 

 「円筒-骨」(骨の円筒)で「角」を表わす用語が祖語である。

 大群(デーゲィ)神の神君シヴァ神の乗物は牡牛であり、

 その額に三日月を象徴として付ける神である。

 秦氏は牛頭天王と呼ばれる須佐之男命を祭る

 八坂神社の奉祀にも係わることになる。

  大国神社のある葛(かど)野郡の「カド」は

 創世記第30章にあるヤコブの子が

 ガド Gad を祖とするイスラエルの

 ガド族の名に係わると考えられる。

 大月氏の一王国から興ったクシャン朝を

 中央アジアに成立させた王はカドフィセスといい、

 カド名を含む。

 京都府、大阪府の秦氏の勢力圏内に

 カド、カタを付した地名が多い。

 またクルジャを祖語とする地名もある。

  延喜式神名帳葛野郡には

 「葛野坐月読神社名神大松尾末社」とあり、

 西京区山添町に鎮座する同名社に比定されていて

 松尾大社の末社であることから秦氏が係わったとみられる。

 その祭神月読尊は『日本書紀』で

 保食神を殺戮して切り刻んだ

 月読尊の別称でハフリを彷彿させるが、

 またの別称が月弓尊であり、弓月と同義である。

 神名帳山城国綴喜郡にも「月読神社 大」(京田辺市大住)及び

 「樺井月神社 大」(京都府城陽市水主宮馬場境内)がみられる。

 ヘブライ人が「供犠の人々」であることからすれば

 月読神との結びつきは理解できる。

 「月読」は「ガットク」と訓め「ガド」の音写ともみられる。

  西京区の隣りは南区となり久世町がある。

 和名類聚抄に訓世郷、『日本後紀』弘仁6年の条に国背郷、

 また古くは万葉集巻11 

 旋頭歌に

 開木代 来背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折

 山背の 久世の社の 草な手折りそ 我が時と

 立ち栄ゆとも 草な手折りそ 

 [やましろの] くせのやしろの くさなたをりそ わがときと 

 たちさかゆとも くさなたをりそ

 [注](柿本朝臣人麻呂之歌集出)

 「開木代 来背」とみえる地名で、

 祖語は「クルセ」であったとみられ、

 クルジャの転訛で弓月に係わる。

 上久世町に現在名綾戸国中神社が鎮座している。

 神名帳乙訓郡に「国中神社」と記載されている古社である。

 同社は綾戸神社と国中神社が合祀されているので

 このように呼ばれる。

 綾戸神社は平安時代の天暦年間(947~957)に

 改称されるまで大井神社といった。

 現在の祭神は

 大綾津日神、大直日神、神直日神となっているが、

 綾戸は久世域内に大藪町があり、「アヤベ」の訓とみられる。

 綾戸の漢字の字義は、「綾」が「絹織物」であるから、

 「絹織物職人」、大綾・大藪の「アヤベ」は

  AYKhR の音写で「農夫」を表わし養蚕農を意味している。

 大藪町はかって単に藪といわれ大津川の渡しがあった。

 因みに「ヤブ」には YFH で「美しい、綺麗、立派な」の字義で

 絹の輝く様子を表わしているかもしれない。

 大阪府池田市に綾羽町があるが、この地名も同義である。

  さらにその西側向日市に

 寺戸(てらと)町と物集女(もずめ)町がある。

 物集女は新撰姓氏録によると

 秦氏の一族物集氏に因む地名であり、

 和名類聚抄に「乙訓郡物集郷・訓毛臣女」とある。

 女は「迷神」の訛ってつけられたものらしい。

 この「モズ」はヘブライ語の「絹」を表わす

  MShY(meshi)の転訛と考えられる。

 同地には神名帳に載る「簀原(すばら)神社」があったが、

 その神社名はヘブライ語の「月」を表わす SHR(suhar)えあるが、

 現在廃社となっている。

 また寺戸町名は平安後期から史料にみえる地名であるが、

 これは「ジド」でヘブライ語の「絹」を表わす用語

 ZYYD(ziyd)の音写されたものであり、

 ZYYDは秦氏の居住地に重要な名称で、

 物集女と背景を同じくする。

  山城国乙訓郡の南は久世郡となる。

 久世郡の中心は現在の城陽市の久世辺りで、

 和名類聚抄に久世郡久世郷とある。

 こちらの久世もクルジャであるが、

 その北側にある平川のうちに平井神社があり、

 平井はヘブライの転訛であろう。

 久世の南の寺田(てらだ)、

 そのうちの久世郡の郡衙遺跡のある正道は

 ともにZYYDの転訛である。

 寺田の南に隣りする枇杷庄も平安時代からの荘園名であるが

 ヘブライの訛ったものである。

 その西側木津川沿いは水主(みぬし)で、

 延喜式神名帳久世郡に載る「水主神社十座」が鎮座しているが、

 水主はモーセが水を御する導師であったことを考慮すれば

 十座のうちにモーセを祭神として加えていただろうと思われる。

 神名帳の同社条には神名として

 「水主坐天照御魂神、水主坐山背大国魂命神二座」と

 二神まで記されているが、その後者がヤハウェ神に関係する。

 詳説は後述される。

  大阪府交野市の京都寄り倉治には「織物(はたもの)神社」

 があり、

 秦氏の存在を示しているが、倉治はクルジャである。

 交野は和名類聚抄などに

 肩野との表記がみられる氏族名でもあるが、

 葛野と由来を同じくしていると考えられる。

  大阪府池田市綾羽は、古くは河辺郡に属した。

 神名帳河辺郡に七座のうちに興味深い神社が並んでいる。

 伊佐具(いさぐ)神社、伊居太(いこた)神社、多太(ただ)神社である。

 伊佐具はアブラハムの子イサク YTsHK、

 伊居太はイサクの子ヤコブ YIKB、

 多太はヘブライ国の創健者ダビデ DVD のことである。

 伊佐具神社は現在尼崎市上坂部字住堂に鎮座している。

 祭神は伊狭城入彦と伝えられているが、

 イサクを符合させたものであり、

 「入」はヘブライ語で「神」を表わす AL(Ael)とみられる。

 住堂は ZYYO である。

 隣りの若王子に伊居太神社も勧請されており、

 両社は対なのである。

 伊居太神社は既述の通り池田市綾羽が現在の鎮座地であるが、

 小坂田(現在の神津田)より配転されたとの社伝があり、

 祭神を穴織大神と記して「アヤハ大神」と称している。

 同市内室町の呉服神社を秦下社というのに対して

 秦上社と称している。

 穴織は『日本書紀』応神天皇37年及び41年

 阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を

 呉に遣わして縫工女(きぬいめ)を求めた時の

 縫工女の名に当たる名であるが、

 穴織神社が別にあったことを考慮すると、

 二つの神社が合祀され、

 複雑になっているのが現状のようである。

 本来その祭神の性格が類似しているための

 合祀であったように思われる。

 ともあれ和名類聚抄における

 河辺郡秦上郷、秦下郷のあった地域で、

 新撰姓氏録に

 「摂津国諸蕃秦忌寸、太秦公宿禰同祖、功徳王之後也、

  又云秦人、秦忌寸同祖、弓月王之後也」とあるように

 秦氏の勢力が集まったことは明らかである。

 よって伊居太がヤコブであってもおかしくはない。

 ヤコブをヘブライ語の文字で表記すると YIKB で

 「イカブ」が本来の発音に近い。

  多太神社については兵庫県川西市多田院の多田神社を

 比定社とする向きもあるが、それは妥当せず、

 同市平野字宮山の多太神社を当該神社としなければならない。

 「多太」を延喜式神名帳に「タダ」訓んでいるが、

 地元ではこれまで「タブト」と呼び慣わしている。

 平野に隣りする矢問は「シモン」で

 ソロモン ShRHN の転訛とみられる。

 和名類聚抄には

 「河辺郡大神郷、訓於保無知」として

 神の訓をミワではなく「ムチ」にしている。

 多太神社の祭神は崇神天皇記で大物主命神の祭主として

 取り上げられた大田田根子で

 神社はその祖廟との伝承を持つが、

 「オホムチ」はオホナムチに通じる。

 その詳細は後に述べる。

  多太神社は、

 神名帳にもう一ヵ所大和国葛上郡のうちに記載されている。

 現在も御所市多田に鎮座している。

 同郡掖上は弓月君が最初に

 応神天皇によって封じられた土地である。

 その周囲には現在名であるが、

 城陽市久世にもある寺田や持田、小殿、粂と ZYYD を

 祖語とする地名が取り巻いており、

 多太がダビデ名であることを示唆している。

 川西市の多太神社もダビデ王の名によるものと考える。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハブール川
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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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2015年8月1日土曜日

月氏とシルクロード:海洋交易商人へ

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:356~360頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      月氏とシルクロード:海洋交易商人へ

  さて、北方の陸路の悪環境と海洋交易の利便を知った

 大月氏族の商人たちはアラビア海へ出て、

 海路の交易をする仲間に加わったものとみられる。

 貿易風を利して、その名称がその価値を示すが、

 アラビア半島からインド亜大陸へ航海する方法も

 ギリシャ商人たちに知られるようになった。

 この航海方法は、

 すでに古くからインドの商人には知られていたと思われる。

 インド洋海域から太平洋海域の海路については

 インドの商人はかなりの知識を持っていたと考える。

 ここでは検討できないが、

 『漢書地理志』に載る

 中国から西アジア地方への航路と寄港地についての

 情報はインド商人によるものとみられる。

 記録を残させない彼等の習慣から史料は少ない。

 また、その商業利権の確保のためにギリシャ商人など

 西方の者には正確な情報を漏らさなかったであろう。

  インドには紀元前8世紀頃から

 海外交易商人の組合 sabhā が存在し、

 株を買取ることによりその仲間に加わる制度ができていた。

 中村元によると、

 組合に加入するには金銭の投資が必要で、

 それによって船を買ったり、必要な資材を買った。

 組合員の間でカースト(階級制度)は

 全く無視されたという状況で

 株仲間に入るのはそう難しいことではなかったと思われる。

  そのような海外交易商人を vanika という。

 彼等の活躍した地域に残るのがワニ伝説で、

 ワニはワニカのことである。

 日本の稲羽の白兎の物語に出るのもこのワニで、

 動物のワニに例えられたのは商船のことである。

 商船を並べて海峡を渡る方法は紀元前6世紀ペルシャの

 ダリウス一世が小アジアからギリシャへ征戦する際に

 現在のイスタンプール辺りに船を並べて渡った記録が

 ヘロドトスの「歴史」に載っている。

  中央アジアからアラビア海へ活路を見出し、

 効率のよい海洋交易に乗り出した大月氏の集団が、

 まず、

 その基地を置いたとところが

 今のコーチン Cochin と考えられる。

 1980年代初めには10万人のユダヤ人がすんでおり、

 現在もその状況は変わらず

 コショウなど香料の市場を掌握している。

 現在の地名ではあるが、

 近くには

 牛頭を意する alp を語幹とする Alleppey 、

 水を意味する nus(nis) を基にしている Mattancher 、

 また、アッシリア時代からアナトリアに展開した

 植民都市につけられた

  kulam 名を持つ Ernakulam と Kayan Kulam があり、

 西アジアの雰囲気を漂わせている。

 ここには紀元前から後2、3世紀頃まで

 ムジリス Muziris 名の港があった。

 大月氏集団はこの港を利用し、

 居住地を広げたものと考えられる。

  インドにおいて海洋交易商人を vanika といい、

 彼等の史跡がワニ伝説に残り、

 その一つが稲羽の白兎物語である。

 つまり、

 古代にインドの商人たちは

 日本近海に徘徊していたことになる。

 それも紀元前後には

 すでに日本へと渡来していたと考えられる。

 漢書に「奴」と記され「漢委奴国王」名の金印を

 授かった奴国は彼等の停泊地で、

 その国名はサンスクリット語の船を表す

  nau に依るものである。

 そればかりではない。

 インドの商人たちは

 朝鮮半島の南端方面に月支国も成立させた。

 それが韓(馬韓)であり、

 後に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)へと発展する。

 インド商人を東アジアへ誘導した理由は、

 そこが絹糸の生産地であったからである。

 なお、

 ヘブライ人の古代日本における拠点の一つは

 「魏志」に記載されている「伊都国」と考える。

 「イト」はヘブライ語で、

 本来は「会衆、集団」の字義だが、

 世界各地に散った「(イスラエル)の記念碑」を表す

 IDH(Iedah) の音写とみられるからである。

 「奴国」が福岡市中央区の沿岸であるのに対し、

 「伊都」はその西、前原市にある。

  絹産業の専門家に成長していた大月氏の商人集団は、

 推測であるが、インド商人の利権の仲間に入り

 商船隊に参加して

 東アジアに移動して来たと考えられるのである。

 その停泊地が韓半島では半島の西側、

 『日本書紀』雄略天皇紀に載る

 倉下(へすおと)(クルジャ)で、

 現在の群山から鐘山方面、

 百済の首都であった扶余の南方面とみられる。

 現在倉下に当たるような地名は見当たらないが、

 『三国史記』地理に

 「百済比象県」(現舒川郡庇仁)があるので、

 同地であったかもしれない。

  海洋商人となった集団が

 大月氏のうちのどのようなものたちであったかは

 難しい疑問だが、

 五翕候のうちのクシャン(貴霜)族に

 制圧された他の翕候国のものたちと

 考える方が自然であり、

 特に肦頭(はんとう)翕候族は

 日本に移動した後の氏族名ハタ(秦)氏と

 同名なので最有力ではある。

 クシャン王朝は4世紀まで存続するが、衰微し、

 その勢力圏に興った

 エフタルやグプタ王朝のため消滅してしまう。

 その6世紀になると、

 現在のラジャスタンであるラジプターナに

 グルジャラ Gurjara 王朝が成立し、

 その系統の王朝は13世紀まで続く、

 その名称は月に親しいものであり、

 月氏の後裔であったとも考えられるが、

 現在の判断では

 彼らを中央アジアからやって来た

 正体の知れない民族とされている。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗
形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ