2016年6月19日日曜日

《少彦名神と山田、大和、倭、日本》②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1252~1265頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 天理市新泉町の大和神社の近くに佐保庄町がある。

 この周辺は平安時代からの佐保庄であった。

 同名の佐保川が奈良市から大和郡山市を流れ

 大和川へ流れ込んでいる。
 
 その川の流れる奈良市の北部、

 現在は法蓮町となっている辺りに

 佐保田荘という荘園が平安時代初期からあった。

 これらの「サホ、サホク」は『古事記』の記す

 曾富謄と同格とみられ、

 大和国の「裁判官」信仰が

 広がっていたと考えられる。

  以上の解析により「大和国」は

 「海国(うみのくに)」とすることができる。

 サンスクリット語の「海」は

 toya(水、海、雨)と言う。

 『古事記』での神々の誕生の条で国之常立神の

 次に成った神に豊雲野神がいる。

 この神名の「豊」を toya  の音写と考える。

 また「雲の(野)」は「大和の」と理解できる。

 同神名は『日本書紀』に豊組野尊とあり、

 同じ神とみられる。

 『同紀』ではこの神名を国常立尊の別称とする。

 一書の部分は次のようにある。

  これを常立尊と号す。

  またの名を国底立尊という。

  次に国狭槌尊。

  または国狭立尊という。

  次に豊国主尊。

  または豊組野尊という。

  または豊香節野尊という。

  または浮経野豊買尊という。
   
  または豊国野尊という。

  または豊齧野尊という。

  または葉木国野尊という。

  または豊見野尊という。


  国常立神(尊)は「国常立尊、ヤハウェ神、エア神」

 でみたようにヤハウェ神の性格を強く持っている。

 「常立」「底立」は既に分析済みで双方とも

 ヘブライ語の

 YKhTYT(takhetit 底)に依る名称であった。

 ここに述べられている豊国は「海国」にして

 「大和(やまと)国」とすることができる。

 「豊国主」は「大和国の首長」、

 「豊国野」は「大和国の」の字義である。

 「国狭槌(さづち)」及び「国狭立(さだち)」は

 「北陸と佐渡の秘密」で述べた佐渡の祖語

 SVD(sod) の同類 SVDYVT(soduut) の音写である。

 「豊組野」の「クミ」は「小山、丘」の

 GBI(gevi) の音写で

 「豊香節(かぶ)野」「豊齧(かぶ)野」の

 「カブ GBVV(gabuu)積み重ね、山積み」に対応する。

 「小山、積み重ね」は幸手市神明内の八海神社、

 佐渡島真野町の小布勢神社に保たれている。

 「浮経野豊買(うかぶのとよかう)」の

 「ウカブ」は AKhV(okhav)で「葦」、

 「豊買」は「水の葦」と理解できる。

 「買:カウ」は GVIVL(geol 葦)で、

 「ウカブトヨカウ」は「葦の水の芽」で、

 『日本書紀』が

 「葦芽(あしかび)のようでこれを国常立という神」

 というのに相当し、

 その一書に

 可美葦芽彦舅(うましあしかぶひこじ)尊

 というのに対応する。

 「葉木国」は HKhKYM(hekekim 智恵を授ける)の

 転訛ともみられるが、「智恵国」でもあろう。

 「見野(みの)」は

  MIYN(mien) の音写で「泉、水源」を表わす。

 その様子は

 「木曽の御嶽山と水無神社」に詳しく述べている。

 以上のように国常立神を理解するには

 ヘブライ語が極めて重要である。

 豊国の「トヨ」としてサンスクリット語の

 toya(海) を優先させたが、

 ヘブライ語の「裁判官」の DYN(dayon)あるいは

 「裁判、法律」の DYN(diyn) でも

 その殆どの神名は理解できよう。

 開闢神話において

 『記・紀』共に「水に浮かんでいる」との

 状況を述べているので「海国」と解釈したのである。

 そしてここに解釈された国常立神の姿が少彦名神と

 重複していることを知り得る。

 二つの神名が

 『記・紀』の建国神話に果たしている役割は

 極めて偉大で、

 イスラエルの神は日本の古代の創世に

 多大な貢献をしたのである。

  『日本書紀』は、

 倭大国魂神あるいは日本大国魂神と表記している。

 「倭」「日本」共に「ヤマト」と訓む。

 「倭」は崇神天皇紀に「倭国」の表記があることから

 「ヤマト国」と理解できる。

 しかし、

 倭は

 漢魏音(上古音)で uwai

 隋唐音(中古音)で uwa

  北京音(近世音)で wei であり、

 「ヤマト」の言語とは言えない。

 漢大陸からもたらされた

 倭人名から採られた用語である。

 中国の史書『後漢書倭伝』に

 倭、倭国の表記があるが、

 『三国志魏書東夷伝倭人章』『晋書倭人伝』が

 『宋書倭国伝』『南斉書倭国伝』『梁書倭伝』

 『隋書俀国伝』と改変されている。

 これらの名称はそれぞれ記事の文頭が

 その語に依って始まっているからである。

 また「日本」、いわゆる日本で生まれた用語である。

 中国の『山海経』、『漢書地理志』などの

 古書にみられる太陽の出る(住む)所としての

 扶桑の考え方が背景にあっての

 観念から生まれた術語である。

 日本は「二ホン Nihon」ないし「ニッポン Nippon」

 と言うが Nippon には特別の理由がある。

 この用語を理解するには桜井市の三輪山が神奈備山と

 呼ばれることを考慮しなければならない。

 同山は「雲の山」であるが、

 雲を表す

 ギリシャ語の νεψέλη、

 ラテン語の nebula、nubes、

 ドイツ語の Nebel が「奈備(なび)」の祖語で、

 神奈備山が「神の雲山」であることを

 理解しておかなければならない。

 但し「神」は「カン」で本来ギリシャ語の

 ケン(黒い)の音写であり、

 「カンナビ」は黒い雲にして雷雲を表わしている。

 つまりギリシャ語あるいはラテン語が大和国に

 取り入れられたちの証拠である。

 この状況から

 Nippon をラテン語 neo-pon の転訛と

 考えられのである。

 neo(ギリシャ語 νεο-)は「新しい」、

 pon (または pons ギリシャ語 ποντος)は

 「海」を意味し、

 neo-pon は「新しい海国」を表わす。

 ヘブライ語の YMYT(海の国)に対応する。

 ギリシャの周辺に(古い)海国(ποντος)が

 あった故の呼称である。

 その Pontos は黒海南岸、

 現在のトルコのアナトリアからグルジアにかけて

 ギリシャのイオニア人によって建国された

 植民国である。

 豊かな地域でローマの周辺にあって同帝国に

 最後まで抵抗し、独立を保っていたが

 紀元前63年に併合された。

 同年にバビロン捕囚からエルサレムに帰還していた

 ユダヤ人が建てた第2神殿が

 ローマによって破壊された。

 イオニアは現在のトルコのエーゲ海  zmir が

 本拠地で紀元前15世紀のヒッタイト帝国の頃は

 Musa といわれた地域で、イオニア人の入植後は

 イオニア、スミルナとなり、ペルシャ帝国の侵攻後は

 ミレトスといわれた。

 イオニアとは Ιωνια が興りで

 「スミレの咲いている所」の意味である。

 日本で「菫」を「すみれ」という。

 この用語はスミルナ

 Smyrna が日本へ入って来た呼称である。

 ギリシャ語、ラテン語がどのようにして

 渡来したのかここでは述べないが、

 「八潮市立資料館藤波の牛角兜」で述べたように

 サカ族(スキタイ人)など、
 
 ギリシャに大きく影響された人々が

 渡来したことは事実である。

 この「すみれ」もギリシャ語、ラテン語の移入を

 証すために敢えて説明した。

 ともかく

 Nippon の原語をneo-pon(新しい海国)と考える。

 現在のイタリアの都市

 ナポリ Napoli はNeo-polis(新しい都市)から

 興った名称でよく似ている。

 極東の遠方の地とはいえ、

 ローマ時代(紀元後)絹を求めて航海して来た

 商人たちが海の中にある島国を「新しい海国」と

 呼んでも不思議はない。

 「海国ヤマト」は

 「新しい海国日本」となったのである。

  さらにそのイオニア文明を背景にした人々が

 ヤマト国の中枢に進出した可能性がある。

 強力な勢力で渡来したのである。

 沖縄の「オキナワ」はギリシャ語の

 ωκυ-ναν (速い船)の音写で軍船を意味する。

 その頃の軍船とは櫂を揃えた奴隷船で

 二段櫂船、三段櫂船などがあった。

 映画「ベンハー」の海戦情景を思い出せば

 理解によい。

 これに対し遅い船とは円井船、商船である。

 琉球諸島の「リュウキュウ」は

 ギリシャの「白い繭」からの「白い leuke 」が

 祖語であることを述べておいた。

 そのようなイオニア系の人々の侵入から

 ヤマト国をイオニアの国とする見方が生まれ、

 Japan(英名)が出来したと考える。

 ヘブライ人はギリシャのことを「イオニア」と呼ぶ。

 YVN(yavan)がその名称で

 イエス・キリストの使徒

 ヨハネ Johan(英語)はこの呼称に依る

 「イオニア人」であった。

 サンスクリット語ではギリシャを

 yona と言い、ギリシャ人を yavana と言う。

 これもイオニア Ιωνια が祖語である。

 現在のヘブライ語では

  日本を YPhN(Yaphan) と言う。

 ジャパン(Japan、Yaphan)はΙωνια から

 生まれた呼称であるかもしれない。

 日本の古代は世界の動きから孤立していた訳でなく、

 外の地域の人々との交流・混成に依って

 成立して来たものである。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2016年6月15日水曜日

《少彦名神と山田、大和、倭、日本》➀


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1252~1265頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《少彦名神と山田、大和、倭、日本》

  「北陸地方と佐渡の秘密」において、

 「延喜式」に記されている佐渡国の郡名

 「雑太」郡を「サハタ」と訓んでいる件について

 『古事記』の「曾富謄」の「ソフト」と同根であり、

 その祖語がヘブライ語の「裁判官、土師」を意味する

 ShVPhT(shophet)であると述べ、

 少彦名神を表していると解釈した。

 その部分を『古事記』は次のように述べている。

  其少名毘古神を顕わし白せし謂はゆる久延毘古は、

  今者に山田の曾富謄といふぞ。

  此の神は行かねども、

  盡に天の下の事を知れる神なり。

 少彦名神を「裁判官、土師」と指摘するのは

 「天の下の事を知れる神」と

 言っている点からである。

 また「此の神は行かねども」とあるのは

 ShVPhT 近似音語

  LShHVT(lishehot、留まる、居残る、滞在する)と、

 「山田」の「ヤマダ」が YMD(amad) に通じ、

 「留まる、(ある地位、場所)にいる、立つ」の

 概念であるからである。

 日本古典文学大系は、

 本居宣長の「古事記伝」が指摘する

 「古今集以下の歌に見える”そほづ”と同じで

  案山子のこととしている」と註している。

 カカシへの変化はおもしろい。
 
 しかし、

 「山田」の背景には単なる「山間の田圃」で

 ないものがある。

 山田には古代日本の創世に係わる秘密が

 潜んでいるのである。

  まず、久延毘古について解釈しておく。

 「クエ」はヘブライ語の GVAL(goel) の音写で、
 
 「救済者」を意味する。

 は大己貴神の国作りを助け、

 また一時へ去ったものの再来して

 困惑していた大己貴神を救済した神である。

 この用語はキリスト教における「救世主」として

 用いられる用語で単なる助力を越えた

 贖(あがな)いをも内容としている。

 少彦名神が常世へ去りまた再来した様子は、

 イエスキリストが十字架に架けられ死んだ後に

 復活したとするキリスト教の思想と想念を

 共有しているものである。

 少彦名神が「土師」にして「贖い主、救世主」との

 観念はよりヤハウェ神へと近づいている。

 石川県鹿島郡鹿西町の久江は

 この GVAL(goel)名でwある。

  奈良県桜井市の明日香村との境に山田地区があり、

 そこに大和神社が鎮座する。

 山田は「大和」と関係し、

 「ヤマト」を解明する鍵である。

 本書の「はじめに」において

 「大和」の由来も解っていないと述べておいたが、

 ここにそれを明らかにする。

 山田名がここにあり、

 『古事記』が「山田の曾富謄」と

 少彦名神の別称として記していることは重要である。

 大和神社の現在の本社は

 天理市新泉町に鎮座している。

 同社の祭神は

 『日本書紀』崇神天皇6年条が

 「倭大国魂神」「日本大国」と表記している神で、

 現在同社はその祭神を

 「大和大国御魂大神」と表記し奉祭している。

 崇神天皇紀は同神がそれまで

 天皇の居所に祭祀されていたと述べており、

 国にとって最も重要な神の一つであることを

 示している。

 同社は「「延喜式」神名帳の大和国山辺郡に

 「大和坐大國魂神社三座名神大」と載っており、

 「大和」を「オホヤマト」と訓んでいる。

 三座として、

 現在の祭神は

 同神と八千矛大神、御年大神となっている。

 「オホヤマト」とは何を示しているのか。

 この理解のためには同社が「朝和之宮」と

 言われてきたことが参考になる。

 つまり、

 「オホ」と「朝:アサ」が

 同じ意味を持っているのである。

 その実像はヘブライ語によって明白となる。

 「アサ」 Ash(ash)、「オホ」は AVR(aor)の音写で

 両方共「火、火災」を表わす。

 Ashは東京都台東区浅草の「アサ」でもある。

 また、AVRが aorと発声されると

 「光、明かり、幸福を与えるもの」となる。

 そこで想起されるのが

 『日本書紀』の少彦名神渡来の場面で、

 「神々しき光が海を照らして、

  忽然に浮かび来る者有」と表現されている。

 また、「海上に惣に―――人の声有り」と同神と

 「光」「海」が結びつけられている。

 「北陸と佐渡の秘密」で同神が船乗りあるいは

 船の舵手(舵取り)であると述べた。

 そこでヘブライ語に「海」を探ると

 YM(yam、海、大洋、湖)があり、

 「海に関する、海の」の形容詞はYMYT(yamit)となる。

 つまり、

 「オホ・ヤマト」は AVR-YMYT(aor-yamit、光-海の)で
 「海の光」の字義となる。

 「大和(おおやまと)」は「海の光」であり、

 「朝和」は「アサヤマト」で「海の炎」である。

 「和(やまと)」が「海」である傍証は、

 大和大国御魂神の「大国」にもある。

 「オホクニ」は AVKYNVS(aokeunos) の転訛で、

 「海洋、大洋」を表し、YM に対応する。

 イザヤ書第41章などにいう

 「海沿いの国と島々」は海の中にある国々であり、

 そこが

 「海の国」であるとの概念が生まれて当然である。

 YMYT が「山田」であり、「ヤマト」である。

 『古事記』の「山田の曾富謄」とは

 「大和国の裁判官」と言っていることになる。

 『日本書紀』に大己貴命が少彦名神に向かって

 我々が作った国は良くできたと言えるかと問い掛け、

 その返答に

 「我が成せるところも有り、

  或は成らざるところも有り」

 と判断した話などには

 裁判官としての性格が覗われる。

 大国魂神あるいは大国玉神が

 大己貴神の別称であることは

 第12章 大国主神と大物主神 などで述べた。

 現在の大和神社が八千矛大神を祀っているので

 「大己貴神と少彦名神」で解析したように

 両神の合一性からみて、

 大国御魂神を少彦名神とすることができる。

 三座のうちに大年神が奉祭されているが、

 この場合の「大」は美称で「年」の「トシ」は

 TShVIH(teshuah) の転訛で

 「救い、救済、解放」の字義で久延毘古の

 GVAL(救済者、贖い主に対応する。

 「海のYMYT」の「ヤマト」が漢字で「大和」と

 表記された事情については、

 上記の桜井市山田周辺の地名が参考になる。

 同市に上(うえ)之宮、上(かみ)之庄の地名があり、

 「上」は「ウエ」にして

 「鷲宮神社と板倉の雷電神社」で述べた上内の

 「上」と同じで、鷲宮町大輪、板倉町大曲の

 「オウワ」の祖語である IV(Iow 雲)である。

 大神神社の三輪山名は「美和」などとも表記され、

 サンスクリット megh の音写で「雲」であり、

 インドラ神の祭祀が関係している。

 ここは「雲国」であり、

 「大和(おうわ)国」なのである。

2016年6月13日月曜日

《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》④

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 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》

  本間氏の本貫依知郷には以上のような来歴がある。

 第11章の「相模:ドゥルガー・プージャーの里」で

 伊勢原市の大山の阿夫利神社は

 「ハフリ」がその祖語で havri の h が無音化して

 avri になったと述べたが、

 ギリシャ(イオニア)から影響された結果である。

 相模にはサカ族などの入植があったのである。

 厚木市には船子、水引の地名や

 金田、松枝両地区に船喜多神社が

 鎮座するのをみると、

 やはり大型の船で来着したものとみられる。

 海老名市名はその「船」が祖語である。

 ドイツ語の kahn 、その古形 kähne が同祖語で

 英語の cabin(船室) に通じる。 

 ギリシャ語の 

 επι-νηγος(船上にある)はより近い。
 
  海老名市南部の本郷は 

 horn(角)に由来すると考える。

 本郷、杉久保、河内「(上下)の地域は

 戦国、江戸期には 

 思間、思馬、遠間と表記されたが

 この「オンマ」は「ホンマ」と同義である。

 ここにも阿夫利神社の訓と同じ現象がある。

 「ホンマ」は河内及び社家名に係わる。

 「シャカ」はペルシャ語として紹介した

 shaka(角) であり、

 「コーチ」は

 サンスクリット語の kūta(角)の転訛である。

  そして、「ホンマ」は

  ドイツ語の Helem、

 英語の helm(現在はhelmet)と同根で

 「帽子、兜」を表わす用語である。

 金田の相模川を挟んだ向かいに

 海老名市の上郷がある。

 「カミ」は

 ドイツ語の Kappe、

 ラテン語の cappe、

 英語の capで、

 「帽子、兜」を表わす用語であるかもしれない。

 本間、恩間は「兜」と理解される。

 厚木市の「アツキ」は

 ギリシャ語の Αττικη あるいは

  Αττικς の音写である。

 ギリシャのアテネ市を中心とする地域名で、
 
 英語で Attica という。

 その字義はアテネ神の尊崇をを表わしている。

 厚木の場合もその本義は同じで

 軍船の守護神に対する崇拝を地名としたものである。

 上郷には「延喜式」神名帳に記載されている

 有鹿神社が鎮座するが、

 この「有鹿」も Αττικηが祖語である。

 アテネ女神は戦いの神で

 常に兜を付けている神である。

 古代ギリシャ時代に製作されたアテネには

 必ず兜が冠されている。

 その有鹿神社が鎮座する上郷の「カミ」が

 「兜」であっても不思議はない。

 因みにヘブライ語の「帽子、兜」を表わす用語は

 KhVBI(kebe)である。

  本間氏はその後安房の里見氏の傘下に移り、

 君津市の小櫃に知行地を得て在住していた 

 なぜ安房に移ったかは史料にみえないが、

 推測すると、

 日蓮をいたく信仰するようになった同家が

 同上人の故郷(安房郡天津小湊町の誕生寺)が

 そこにあることに依るのではないだろうか。

 里見氏は

 豊臣秀吉の小田原城攻め遅参を理由に

 崩壊させられるが、

 本間氏は江戸幕府の時代になって小櫃から

 八潮市後谷に移り、土着したという。

 そこで小櫃姓に改姓したという。

 「小櫃」は

 イスラエル人の信仰に係わる「箱」を意味する

 KPhSH が原語であったが、

 それはまた久伊豆神社が鎮座していたと推測できる。

 本間氏が氏族の象徴と大切に保持していた

 「牛角兜」は小櫃郷の近くの久留里が

 また牛角(水牛の牡牛)を

 大切にする地であったことから

 より重要視されたと考える。

 そのため柳之宮の神社の鎮座する地域を

 「西袋」と称したと推測される。

 西袋の地名は新編武蔵風土記稿は綾瀬川が

 西方に大きく曲がり、その地が袋のように

 なっていたことに依ると述べられているが、

 川の対岸にも現在東京都足立区桑袋となっている

 「桑‐袋」が西袋の小字として載っているので、

 それは余り妥当性がない。

 西袋、桑袋、そして草加市手代(てしろ)は

 その祖語を同じくするだろう。

 つまり、

 久留里市場の旧家名「須藤」や孫代と同様

 「セイタイ」で、ヘブライ語の

 SVR-TAV(se牡牛-tai水牛)、「水牛の牡牛」で
 
 「」を表す用語である。

 「袋」は「脹(ふくら)」であった。

 それは藤波邸の「牛角兜」を示唆するものである。

 サカ族(ゲルマン族)の牛角は、

 ここに

 ヘブライ人の月神(sin)信仰と共鳴していると考える。

 とはいえ、それは神体でなく、

 あくまでも私邸の安置物の限りである。

 さらにこの牛角には第三の共鳴物がみえている。

 つまり、氷川神社の影である。

 同社は大宮市の本社を中心に西角井家などを

 神職とする出雲国造家と同祖で天穂日命を

 祖神としている。

 「牛角兜」はこれら三つの「牛角」と

 ギリシャのアテネ女神の兜が

 習合して姿座しているのである。

  牛角兜の角の部分の正面には、

 階段のような刻みが三十三段

 (右の角は 五分の四の長さの部分で切断されている)

 に彫られている。

 第4章の「ゲルマン」で、

 その原語がシュメルの galm-am(階段-野牛)で

 あると述べた実像を見事に表している。

 牛角は天への階段なのである。

 メソポタミアの新石器時代のムレイヒト遺跡や

 アナトリアのチャタル・フユク遺跡、

 アッシリアのアルパチア遺跡の碗に

 牛頭が揚げられたり、

 描かれた理由がよく理解できる。

 ヤコブが夢にみた「天への門」も階段であった。

 ジグラットはシュメル語で、 

  hur-sag-galm-ma(大きな階段の山)と表現されていた。

 階段は古代の信仰において

 重要な意義があったのである。

 その伝統を継承する日本の神社は

 必ず本殿に上がるための階段が設けられている。

 藤波邸の牛角兜は、

 そのような人類一万年の宗教的重みを表現し、

 また

 「ゲルマン」の何かを表明している逸品である。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2016年6月12日日曜日

《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》③

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 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》

  「ホンマ」「エチ」「エビナ」は、

 この氏族の来歴を明らかにする。

 「エチ」は奈良県天理市庵治町と同祖である。

 「庵治」名については

 第4章 カルト人の移動 「ゲルマン」で

 『史記』に記載されている中央アジアの

 「西北二千里」に居住しているとされる

 「庵蔡(アラン)」との関係を言及しておいたが、

 その同種族名である。

 彼らはゲルマンである。

 ドイツに入った彼らは

 Essenという鉄の都市を築いている。

 この庵蔡の一部は中央アジアを南下する。

 インドのサンスクリットの資料に śaka 族と表記され、

 漢(唐)音で「塞」と表記されている人々である。

 南下したかれらは、まずペルシャ湾の地に定着し、

 そこをサカスターナ(Sacastana)と言ったが、

 さらに南下し、

 紀元前2世紀にはインダス河河口から、

 アヴァンティ、サンチーまでの広い地域に

 漢名塞王朝を形成した。

 その名称 Sacae は

 ペルシャ語では Shākh で「角」を意味する。

 「ゲルマン」はシュメル語の 

 galm-am(階段-野牛)に起源があり、

 「牛角」の意味との見解を述べたが、

 ペルシャでは、彼等を

 「角族(shakh・角-e・人、族)」と称したのである。

 この塞王朝には

 アレキサンダー大王に率いられて東征した

 ギリシャ人の築いたバクトリア国の末裔も含まれ、

 そこで主に使用された言語は

 ギリシャ語であったらしい、

 彼らは共に大月氏のクシャン王朝に

 圧迫され続けたのであるが、

 インド亜大陸にグプタ王朝が強力になるにつれ、

 滅亡していった。

 圧迫された塞族の一部は細長い船、

 つまり軍船によって航海に出、

 東アジアヘやって来たとみられる。

 沖縄の古名は「阿児奈波」であるが、

 これがギリシャ語の
 
 αγο-ναν(軍船)の音写である。

 「オキナワ」も

 ωγν-ναν(早い船)で軍船を表わす。

 石垣島に平得(ひらえ)という地区がある。

 ギリシャ語の Ηεραιτος の転訛で

 鍛治神の名である。

 ここでインドネシアのセレベス島や

 フィリピンのミンダナオ島から持って来た

 赤目(褐鉄鉱)、黒目(磁鉄鉱)を用いて

 鉄製武器を鍛えたのである。

 琉球も沖縄の古名であるが、

 これもギリシャ語の

 λενκς(白い、明るい、輝く)に依る名称である。

 ラテン語の iucus、lux、

 英語の light と同根語である。

 沖縄本島初め、勢理客(セリカ)など

 絹に係わる地名が散在することを

 第10章 天毒とセリカの「セリカ名の由来と遺称」

 で述べたが、ここに

 ギリシャ語で「白い」と言われる土地があっても

 おかしくない。

 繭は白い球である。

 「まゆ」はヘブライ語の「白」が原語である。

 しかも、琉球の「球」は「玉」であるから、

 その名も「白い玉」は繭玉を表わしている。

 中世になってもポルトガルなどでの西欧語国では

 台湾を含めた琉球を Gores と呼んだ。

 「ゴロス」は「ふくろう」のことである。

 日本ではこれを「五郎助」という。

 その祖語はギリシャ語の glaukos (輝く)で

 アテネ女神の尊称であった。

 ふくろう(γλανξ)はアテネ女神の象徴で

 ギリシャの軍艦の舳先にはこのふくろうの像が

 船の守護神として据えつけられた。

 戦いの神でもあったアテネ女神は

 常に兜を冠した姿で表される。

 ローマ人は glaukos により Greek という名称を

 作り出し、西欧で Greece といい、

 日本語でギリシャと言うことになっているのである。

 Gores(琉球)は

 結局ギリシャを意味していることになる。

 そればかりではない。

 ヘレニズムの国バクトリアを治めた主たる家系は
 
 イオニア出身の

 オーティデーモス家の系譜の者であったが、

 その奉祭神がアテネ女神で、

 数多く鋳造された金貨などの貨幣には

 ふくろうの姿が鋳込まれている。

 サカ族とギリシャ計のバクトリア人は共同して

 軍船を押し立てて東アジアへやって来たのである。

 それらの軍船を「天磐船」という。

 それ以外のインドの商人が用いた船は

 交易船「円船」で速度は遅いが

 物品を大量に載せられるもので

 「タル(tari)」といった。

 「角族」はギリシャ人から、

 大量にして良質の鉄を生産する技術を入手する。

 それが多々羅である。
 
 「タタラ」はギリシャ語の

 「熱くする、熱して軟らかにする」の意味である

 θαλπω の完了形 τεθαλμαι 

 を祖語とするものであり、

 「熱して軟らかにされたもの」の字義である。

 ギリシャのアテネの北方の地方 

  Thettalia(Thessalia) はこの用語に由来する。

 ここは磁鉄鉱の産地でもある。


 マケドニアにアレキサンダー大王の頃、

 テルメ湾の元となった therma 市があったが、

 θεργμα は「熱」を表す。

 その市名は現在

  Thettaloniki(Thessaloniki) となっていて、

 マケドニアが

 製鉄技術を持っていたことを示している。

 この市名は『新約聖書』の

 「テサロニケ人Thessalonians」 である。

 パウロが二つの手紙を宛てた教会の地名で

 第1章7に「マケドニアとアカヤ」があることから

 その所在が明らかでる。

 その効率の良いタタラ技術を生かしたのが

 天穂日命一族である。

 「穂日」はヨーロッパ語圏の「角」を表わす

 horn(英語) 、Horn(ドイツ語) で

 出雲国造家の「千家(せんけ)」名はそれを

 サンスクリット語 sṛnga(パーリ語singa) 

 で表現したものである。

 第14章の「守屋谷と神代神社」で

 角を奉祭する人々が重なっていると述べたのは

 この事情による。

 タタラの効果は大きく、

 イスラエル人の聖地安来は

 現在「鋼(はがね)のヤスキ」として世界の金属業界に
 
 広く知られている。
 

 

2016年6月2日木曜日

《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》②

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 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》

 一私家の系譜で恐縮だが同家は江戸時代の中頃まで

 小櫃家といい、

 それも江戸期の初期本間姓から改姓した家系である。

 その本間氏については現在の当主が

 「八潮市史研究」に掲載して
 
 明らかにしているところに依れば、

 鎌倉時代の御家人本間氏が本貫であるという。

 その祖は本間能忠で、

 「群書類従」にその系譜が載るが、

 現在の神奈川県海老名市に当たる

 相模国高座郡海老名郷の住人

 海老名源八李定の次男であるという。

 厚木市金田に本間屋敷の字名があり、

 そこの妙継寺はその屋敷跡と伝えられている。

 本間氏は佐渡の守護代を勤めることがあった。

 「北陸と佐渡の秘密」で登場した

 鎌倉時代の守護本間氏である。

 本間能忠の能久などである。

 文永8年(1271年)と推定される

 日蓮の佐渡送りにも関係し、

 日蓮は送られる直前

 本間屋敷預かりの身になったらしい。

 日蓮書状に

 「此れ十二辰時勘気、武蔵守殿(大和宣時)

  御あつかりにて、十三日丑時にかまくらをいて〃、

  佐土の国になかされ候か、たうしハほんまのえちと

  申しところに、

  のちの六郎左衛門尉殿代官右馬太郎と申者

  あつかり候か、いま四五日ハあるへけに候」

  (本満寺文書/神奈川県史資)とみえる。

 「のちの六郎左衛門」が

 本間六郎左衛門重達とされる。

 「のち」は「当主」の意味で

 サンスクリット語の 

 nātha(主人、支配者)が用いられていると考える。


 この書状でも解る通り、本間屋敷は「えち」にあった。

 「えち」は鎌倉時代から戦国期にかけての郷名で

 依智郷と表記され、現在の依知である。

 厚木市の相模川と中津川(及び小鮎川)が合流する

 金田以北上依知の両河の間を称していった郷名である。

 本間氏の母体海老名氏は、平安期から中世に現在の

 埼玉県児玉郡美里町を中心に活動した

 武蔵七党のうちの横山党の出であり、

 康平年間(1056-65年)に相模守としてこの地に来た

 源田郎親季を祖とする。

 さらに横山党の祖は武蔵権介として下向した

 小野義隆(義孝)である。

 この小野氏は村山源氏の出と諸家系図纂は言うが、

 厚木市に小野があり小野神社が鎮座することから、

 その祖はこの地域に縁りのあった種族と考えられる。